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 われわれを取り巻く環境かんきょうは、あっというまに人工化し、急速に自然が破壊はかいされてしまった。昭和三〇年ごろまでは、東京都の二三区内でもトンボやカエル、バッタなどの野生小動物がけっこうたくさんすんでいた。ところが、三〇年から四〇年までの間に、それらはすっかり姿を消し、農村でも農薬の大量使用によって急速に動物たちは消滅しょうめつしてしまった。戦後生まれの人たちも、しばらくの間はセミやトンボ捕りと に興じ、川あそびや木登りに夢中になって、自然とたわむれた記憶きおくをもっている。しかしそうした幼少年時代を支えていた環境かんきょうが一挙に崩壊ほうかいし、子どもたちは自然とのつきあいを断ちきられてしまうことになった。
 一昔前は、道路には子どもたちが群れていた。今は自動車が道路を占領せんりょうし、子どもたちはそこからすっかり駆逐くちくされて、家の中に閉じこめられてしまった。多くの子どもは小さな家で飼育され、学校では厳しい管理の下に画一的な教育で締めつけし   られている。そして、テレビやオーディオセット、ファミコンなどの電子器具に埋もれうず  、無機的な世界の中で密室文化に耽っふけ ている。まるでクモの巣にかかったちょうが、もがきながら体液を吸いとられていくように、子どもたちは過剰かじょうな情報の網目あみめの中で、もがきながら精神を衰弱すいじゃくさせていく。
 進歩は無欠の善なるものであり、進歩こそ人間を幸福にする呪文じゅもんであると信じられてきた。その呪文じゅもんにしたがって、文明の進歩はすさまじいほどに加速度を増して、まっしぐらに走り出しはじめている。その進歩の加速度を測定する方法もないし、文明の利器が人類を乗せてどこへ向かって走っているのか、だれも予測できない。
 この状況じょうきょうは、文明を乗せている乗物を思い浮べれうか  ば、ある程度理解できるだろう。人類は肉体の能力を超えこ た速度をわがものにし、自由に操作できることに憧れあこが てきた。乗馬はある程度それを満たしてくれたが、やはり生物的限界がある。機械だったらその限界を突破とっぱしうるだろう。自転車が発明されたが、それはまだ人力によって動く機械だった。自動車、プロペラ飛行機が発明されるに及んおよ で、乗物はしだいに人間の操作能力を超えこ た自動性をもつよう
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になった。しかし、その自動性の中で、人は多くの場合、どうすれば何が起こるか予知できるし、何が危険であるのかを知っている。自分の知覚や感覚の能力で操作が可能だからである。
 われわれは現在、音速に近い旅客機で旅をしている。機内は完全に空調され、ゆきとどいたサービスを受け、豪華ごうかな飲食を楽しんでいる。飛行機は動いているのか静止しているのか、機内では感覚的には全くわからない。何か危険なことが起こっていようと、乗客にはなんら察知することができない。しかし、ごくわずかのミスがあれば、乗員の意志とは無関係に、全員が一挙に死亡する事態が発生することは確実だ。
 われわれが乗っている、文明という高度に技術化された乗物も、ジャンボ機と同じような運命を担って走り続けていると、私には思われてならない。このまま加速度が増していけば、いつかカタストロフが待ちかまえているだろう。その兆しはあちこちにもう見えはじめている。

(『子どもと自然』河合雅雄まさお 岩波新書)
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