a 長文 1.1週 yube2
 思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったことを、そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも、ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから、自分にかわってそれをやってくれるひとだけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学てつがく上の友人(=協力者)なのだ。だから、真の友人を求めるかぎり、批判者を批判しつづけなければならない。
 では、批判が有効であることの基準は何か。それは有効な批判が出てきた時点ではじめてわかることだ。有効な批判の成立そのものが批判の有効さの基準をはじめて作りだす。これは哲学てつがく的議論のひとつの特徴とくちょうであり、弁証法という奇妙きみょうな訳語で知られるディアレクティークという語のもっとも深い意味だ。それはいわば、闘争とうそうの勝敗を決める基準そのものが、その闘争とうそうの中で生み出されるような特殊とくしゅ闘争とうそうなのだ。それでもそれが闘争とうそうでないのは、その未知の基準を生み出すために、お互い たが が協力しあうからである。
 たいていのひとは、議論するということを相手の考えを論破して自分の考えを弁護することだと思っている。政治的議論のようなものなら、もちろんそうだろう。たとえば原発とか消費税といった問題についてなら、どのような思考過程をへてであれ、いま自分と同じ結論に達しているひとこそが自分の友人であろう。そして、自分と同じ主張を別の論拠ろんきょから擁護ようごしてくれるひとは、最もたのもしい協力者だろう。だが、哲学てつがくにおいては、論拠ろんきょがちがう同じ主張なんてものはそもそも存在しない。たまたま字面のうえで同じ結論を主張するひとがいても、かれは友でも敵でもない(もちろん原発や消費税についても哲学てつがく的に考察することはできるが、それは結論を得るということに本質的な興味をもたない場合にかぎられる)。
 哲学てつがくの議論は、思想を持つ者どうしの通常の討論とは逆に、自分では気づかない自説の難点や弱点を相手に指摘してきしてもらうことだけをめざしておこなわれる。ぼくの経験した範囲はんいでは、大森荘蔵さんと議論したとき、かれ完璧かんぺき哲学てつがく的であると感じた。大森さんは現在の自説が有効に論駁ろんばくされることにしか興味を持っておられないようであった。こういう純粋じゅんすい哲学てつがく的な態度は、議論における公
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正な態度と誤解されがちだが、そうではない。実は、単に利己的なだけなのだ。哲学てつがくとはまったく利己的なものなのだが、幸いにしてその利は、だれも他に欲しがるひとがいない自分だけの利であるため、あたかも公正な態度のように見えるのである。
 だから、哲学てつがくの場合、友人と論敵はぴったり一致いっちする。同じ問いを共有し、協力してそれを徹底的てっていてきに解明し尽くしつ  たいと思う友人としか、そもそも敵対することができないからだ。それ以外の場面では、哲学てつがくはひとと論じあうべき理由はないし、そもそもほんとうは公表すべき理由さえないのだと思う。哲学てつがくというものは本来、黙っだま て墓場へ携えたずさ ていき、持ち主の死とともに消滅しょうめつしてよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味がないが、哲学てつがくはちがう。賛同者がふえることは、思想にとっては最も望ましいことであろうが、哲学てつがくにとっては本質的な意味はないだろう。

(『「子ども」のための哲学てつがく永井ながい 均)
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