1以前からわが国の若者には政治や社会に対する意見がとぼしく、これが諸外国の人々と議論する際にあいまいだとされる理由になることは、しばしば話題にのぼってきた。2「日本の政府はどのようなヴィジョンを持っているのか」「日本における女性の地位はいかなるものか」「きみの信仰はどのあたりにあるか」「日本文化とは何か」、こうした矢つぎばやの質問に即答できる若者がまれであるのは、私自身、毎年の授業を担当していて痛感するところだし、3さまざまな国の友人から、「日本の若者は…」と苦言を呈されたことも一度や二度にとどまらない。だがしかし、こうしたオピニオン(主義・主張)の問題にはふれずともすでに日常的な会話の端々から、あいまいさは指摘されているようだ。
4ひとつには、こういうことがあるだろう。たとえば、私がパリの知人たちとおしゃべりする際、彼らからの質問で、よく「あなたの生まれた高知というのは、東京からどのくらいの距離のところにあるのか」とか、5「その高知にはどれくらいの人が住んでいるのか」とか、具体的な数値をたずねられることが多いが、これは私たち日本人がもっとも苦手とする質問なのではあるまいか。6私たちは、自国ではほとんどの場合、「かなり」とか「けっこう多くの」といった表現で間にあわせているのだが、それはそういった大ざっぱな表現に対する「暗黙の了解」を共有しているからである。7「古池や蛙とびこむ水の音」という一句を聞いても、この池が一〇〇メートル四方もありはしないことや、巨大な蛙が何匹もとびこむわけではないことが、私たちには当然のように了解されているわけだ。
8なるほど、東京での「けっこう広い宅地」が五〇坪であったりすることは、ビバリーヒルズ(ロサンゼルスの高級住宅地)の住人には予測しようもあるまいし、「かなりの混雑」が東京のラッシュ時の殺人的な電車のものであることなど、サハラの遊牧民にとっては想像を絶してもいるだろう。9したがって、人種の坩堝であるパリでは、数値にたよるしかないのが当然であるということとともに、逆にまた、日本がいかに横並びの均質な社会となり、ビバリーヒルズをもサハラをも想像しえない所となってしまっているかということにも、私たちは気づかねばなるまい。0つまり、私たちは、
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