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 「楽」という漢字には大きくいってふたつの意味がある。ひとつは楽しいとか快楽とかの「楽」。もうひとつは便利とか簡単を意味する「楽」。「楽しいこと」と「楽なこと」。
 このふたつを混同し、まるで同じことを意味しているかのように思いこむのは危険なことだ。少し考えればわかるように、楽なことが楽しいとは限らない。便利で楽なことがかえってぼくたちの楽しさをうばってしまうこともある。そして、楽しいことが、難しかったり、複雑だったり、面倒めんどうだったり、時間がかかったりすることはよくある。そればかりか、難しくて、複雑で、面倒めんどうで、時間がかかるからこそ、楽しい、ということも珍しくめずら  ない。
 だから、ぼくたちはやっぱり、「楽しいこと」を「楽なこと」から区別しておいたほうがいい。ファストな「楽」を手に入れるために、スローな楽しさや気持ちよさを犠牲ぎせいにしないようにしよう。そう考えるのがアウトドアという遊びだ。それは、楽で便利なことのかわりに不便で時間のかかるスローな楽しさをぼくたちに与えあた てくれる。
 アニメ映画の宮崎みやざき駿はやお監督かんとくがどこかで言っていたことを思い出す。元気のない今の幼い子どもたちに元気を出してもらうためには、まず保育園や幼稚園ようちえんの庭をデコボコにするのがいい、と。実際にそうした保育園があって、子どもが確かに生き生きと元気にかけ回っているという。しかしどうやらこれは幼い子どもばかりの問題ではなさそうだ。つまり、ぼくたちが生きる人工の世界は、どこもかしこもまっ平らで、ぼくたちはみんなデコボコという楽しさをとりあげられてしまったのではないだろうか。
 デコボコはたしかに不便だし、効率的ではない。便利さと効率性ばかりを追い求める経済中心の社会は、デコボコが好きではない。でもデコボコこそ自然界の特徴とくちょうだといえる。日本は、二十五倍もの広さをもつアメリカよりも多くのコンクリートを使って、世界一のペースで自然のデコボコを人工的で平らな平面に変えてきた国だ。単に一部の人々の経済的な利益のためというだけでは説明できない「反デコボコ」や「反自然」の力が社会全体に強く働いていたとしかぼくには思えない。もちろん、それは一方で経済成長の原動力となったわけだが、もう一方では、いたるところで自然環境かんきょうと地域の文化を破壊はかいして、楽しくない世の中をつくることにもなった。
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 そんな世の中にあって、アウトドアの遊びをとおして、ぼくたちは自然界のデコボコを――そしてデコボコの世界だけがもつ楽しさを――近代的な暮らしの中に呼び戻そよ もど うとしているのではないだろうか。アウトドアを楽しむときの大人たちは、「ままごと」をしている幼い子供たちにそっくりだ。たき火を囲んでは、まるで、自分たちも知らない遠い昔の人々の暮らしをなつかしむかのようでもある。またそれはすっかりよそよそしくなってしまった自然界との仲なおりのための儀式ぎしき。人間の世界だけではなく、自然界を含めふく た広い世界の一員としての自分の場所を再発見しようとしているようでもある。
 アウトドアという遊びに参加するきみは、日常の生活の中に流れる時間とはずいぶんちがう時間の中に入りこむ。食事のしたくをするときの時間、たき火を囲む時間、釣り糸つ いとの先の浮きう を見つめる時間、カヤックで水をすべる時間。山の尾根おね道を歩く時間、テントの中の時間、星空をあおぎ見る時間。一見、静かで地味なそれらの時間のそれぞれが、きみの「たましい」を揺さぶるゆ   
 しかもアウトドアは屋外にだけとどまるものではない。きみはあのアウトドアのデコボコの世界の断片や、楽しく美しく安らかな時間の余韻よいんを屋外から自分の家へともち帰るだろう。そしてそれらは、日常の中にまぎれこむ。あのデコボコな空間やスローな時間が流れ込んなが こ だきみの毎日の生活はもう、以前とは同じものではない。忙しいそが さやあわただしさの中に戻っもど ても、きみはもう以前とはちがうきみ。きみはたしかに前より生き生きと輝いかがや ているだろう。

つじ 信一「『ゆっくり』でいいんだよ」より)
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