a 長文 8.2週 yabi2
 私が小学校六年生の時だった。ある日のこと、それまで外側から眺めなが てだけいた隣家りんかに入ることができた。となりの大学生のお兄さんが遊びに来いと言って、私に家の中をくまなく案内してくれたのである。ところが、私がいつも自分の家の庭や縁側えんがわから仰ぎあお 見ていた二階のお兄さんの部屋の窓から、はじめて自分の家と庭を見下ろした時、私はその何とも言えぬ不思議な眺めなが に、思わず声を立てて笑ってしまったのである。
 私の目の前にある家が、どう見ても長い間住みなれた自分の家であることは疑いないのだが、それでいて、頭の中で私がこれこそ自分の家だと熟知している家とは、どこからどこまで違うちが のだ。頭では同じ家だと分かっていながら、目に見えている家は、まるでおとぎの国の家のように、はじめて見る新鮮しんせんさと、ぞくぞくするような未知の神秘に包まれている。この時の戸惑いとまど と興奮は、五十年近くたった今でも忘れられない。
 また、私には次のような苦い経験もある。小さい時から小鳥が大好きだった私は、ひまさえあれば山野に出かけ、鳥を眺めなが ては楽しんでいた。日本の小鳥ならば姿は言うまでもなく、そのさえずりを聞いただけでも、たちどころにそれが何鳥であるかを言い当てられる自信があった。いや、さえずりどころか、短い地鳴きですら何鳥のものか分かるとさえ思っていたのである。
 ところが、だいぶ前から日本でも鳥の声を録音することがはやり出し、やがて国内の鳥はおろか、外国産の鳥の声まで、NHKなどが放送するようにもなってきた。私はこのような放送をたびたび聞いているうちに、確信をもって何鳥かを言えないことが、ままあることに気づいたのである。それも、録音が不自然だとか音質が悪いためではないのだから、がっかりしてしまった。
 自分で野山に出かけた時は、長い経験と知識で、ある時期に日本のどの辺には、どのような鳥が見られるかが、私にはよく分かっている。そのため、鳥の声を聞いた場合に、私はこの総合的な知識を無意識のうちに動員して、いま鳴いた鳥が何であるかの可能性の範囲はんい絞るしぼ ことで、鳥の種類を決めていたらしい。
 ところが、他人がとった録音や、放送される鳥の声の場合には、その鳥が何であるかを割り出すのに必要な情報が得られないため、可能性の範囲はんい狭めるせば  ことができない。そこで、不意に、解説もなしに声だけを録音で聞かされると、本当はよく知っているはず
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の鳥の声でさえ、自分でもおかしいほど自信がなくなってしまうのだ。
 私が日本の山野で特定の鳥を声だけで認識できるということは、実はその声をめぐる多くの情報の脈絡みゃくらくの中で、対象を相対的に決定していたのであって、常に声そのものが唯一ゆいいつ無二の決定的な手がかりを含んふく でいたわけではないことを悟らさと されたのである。
 このような話で私が示したかったことは、私たち人間の事物や対象の理解や認識というものは、意外にもかなり一面的でかたよりのあるものだということである。自分の住んでいる家や自分の部屋でさえ、実は極めて限られた角度、視点からだけ私たちはそれを把握はあくしているのであって、決してすべての点を網羅もうら的にとらえて理解しているわけではない。
 私たちは、実際問題として、いろいろな生活上の習慣や、物理的な固定条件のゆえに、特定の事物や対象についての視点を簡単には変えられない。そこで、自分が見ていること、知っている側面だけが、あたかも対象そのものであると思い込むおも こ のである。ただ、何かの偶然ぐうぜんでこの習慣的な接し方がこわされる時に、はじめて私たちは自分たちの認識の持つ一面性に気がつくのだ。

鈴木すずき孝夫「ことばの社会学」から。一部省略がある)
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