1私が小学校六年生の時だった。ある日のこと、それまで外側から眺めてだけいた隣家に入ることができた。隣の大学生のお兄さんが遊びに来いと言って、私に家の中をくまなく案内してくれたのである。2ところが、私がいつも自分の家の庭や縁側から仰ぎ見ていた二階のお兄さんの部屋の窓から、はじめて自分の家と庭を見下ろした時、私はその何とも言えぬ不思議な眺めに、思わず声を立てて笑ってしまったのである。
3私の目の前にある家が、どう見ても長い間住みなれた自分の家であることは疑いないのだが、それでいて、頭の中で私がこれこそ自分の家だと熟知している家とは、どこからどこまで違うのだ。4頭では同じ家だと分かっていながら、目に見えている家は、まるでおとぎの国の家のように、はじめて見る新鮮さと、ぞくぞくするような未知の神秘に包まれている。この時の戸惑いと興奮は、五十年近くたった今でも忘れられない。
5また、私には次のような苦い経験もある。小さい時から小鳥が大好きだった私は、暇さえあれば山野に出かけ、鳥を眺めては楽しんでいた。6日本の小鳥ならば姿は言うまでもなく、そのさえずりを聞いただけでも、たちどころにそれが何鳥であるかを言い当てられる自信があった。いや、さえずりどころか、短い地鳴きですら何鳥のものか分かるとさえ思っていたのである。
7ところが、だいぶ前から日本でも鳥の声を録音することがはやり出し、やがて国内の鳥はおろか、外国産の鳥の声まで、NHKなどが放送するようにもなってきた。8私はこのような放送をたびたび聞いているうちに、確信をもって何鳥かを言えないことが、ままあることに気づいたのである。それも、録音が不自然だとか音質が悪いためではないのだから、がっかりしてしまった。
9自分で野山に出かけた時は、長い経験と知識で、ある時期に日本のどの辺には、どのような鳥が見られるかが、私にはよく分かっている。そのため、鳥の声を聞いた場合に、私はこの総合的な知識を無意識のうちに動員して、いま鳴いた鳥が何であるかの可能性の範囲を絞ることで、鳥の種類を決めていたらしい。
0ところが、他人がとった録音や、放送される鳥の声の場合には、その鳥が何であるかを割り出すのに必要な情報が得られないため、可能性の範囲を狭めることができない。そこで、不意に、解説もなしに声だけを録音で聞かされると、本当はよく知っているはず
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