a 長文 11.3週 wapu2
 私の住む島はずれの村々では、十人家族のうち二人に職があればいいほうだ。仕事のない多くの若者たちは、海辺で日がな一日サーフィンをして過ごしている。
 日本もまたポリネシアのように、家族のだれにでも、村のだれにでも、役割があった社会だった。これが、だれもが社会に欠かせぬ一員であるという、強い共同体意識と通じている。日本人にとって、社会の構成員はすべて家族の一員である。
 日本は、資本主義のもたらした「ビジネス」に対しても、共同体意識で臨んできた。そもそもビジネスとは、他者との間に成り立つべきものだ。それを共同体意識の内で行おうとしたところに無理がある。しかし、義理人情で繋がっつな  た取引、終身雇用こよう制などによって、その無理を通してきた。
 もちろん資本主義の導入は、失業者をも生みだす。しかし失業者は、共同体意識の中では存在してはならない事象だ。日本人は巧妙こうみょうに、この問題を避けさ てきた。失業者は社会のはじ、家のはじ、として、家族がかくまい、扶養ふようしてきたのだ。
 個人主義、競争意識の上に成立している欧米おうべい社会は、これとは基を異にする。失業は個人の問題。社会は失業者を「怠け者なま もの」とか「生活不能者」とかとみなす。そうみなされることによって、欧米おうべいの失業者は、個人として、社会の一端いったんに位置することができる。しかし、日本の失業者は幽霊ゆうれいのような存在だ。いるけど、いてはならない。見えるけど、見えない存在だった。だが、経済不況ふきょう見舞わみま れた現在、この幽霊ゆうれいが実体化してきた。失業者をかくまってきた両親もまた職を失う危機にさらされているのだから致し方いた かたない。ここにきて、日本は、否応なしに失業者問題と対峙たいじすることになる。
 しかし日本人は、失業者に対して、おまえが悪い、とはいえない。むしろ社会が悪いのだ、と考えてしまう。そしてこの社会のどこが悪いのだ、と自らを見つめ直した時、私たちの共同体意識が、ビジネスとは相容れないことに気づかされるのだ。
 現代日本は、社会とビジネスとの対立という根本的問題を突きつけつ   られている。この対立は、日本にとって死に至る病である。日本社会の中にも、日本人の精神性の内にも、この問題に対す
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処方箋しょほうせんはないからだ。そして失業者問題は、この病を日本という肉体に急激に広がらせる原動力となるだろう。
 タヒチ島では空き巣が横行している。パペーテで働いて家に戻るもど と、家財一切、盗まぬす れていたとか、二週間の間に、三回も盗みぬす に入られ、金銭はもとより、冷蔵庫や戸棚とだなの食品ごっそり盗まぬす れたとか、被害ひがい届けは後を絶たない。失業状態の若者たちの不満は、サーフィンでは解消できなくなっている。失業者にとって、切実なのは金だ。土地はふんだんにあり、食物がたわわに実っている島であっても、金を求めての犯罪が横行する。
 家も食物も、金がないと手に入らない社会となってしまった日本においては、状況じょうきょうはさらに過酷かこくになるだろう。失業者の不満と怒りいか は、幾多いくたの犯罪を生み出すことだろう。しかし、世界は資本主義の波にすっかり呑みの 尽くさつ  れている。この流れに逆行して、古き良き共同体社会に戻るもど ことはできない。死に至る病を得た日本は、社会もビジネスもなし崩し  くず になっていくだろう。その時、私たちはどうしたらいいのか。個人で考えなくてはならない時代に入ってしまっているのだ。

(坂東砂子「『楽園』の失業」より)
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