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 テレビゲームが伝統的なおもちゃと決定的に異なっている点とは、「遊び相手」として機能することである。宇宙人のいないインベーダー、追いかけてくる敵がいないパックマンは成立しない。一人プレイのゲームでも、敵キャラがいないゲームでさえ、ゲームである限り、プレイヤーの行動はルールに照らし合わせてチェックされている。直接的な「相手」がいない場合でも、コンピュータは審判しんぱんのような形で遊びをサポートしている。つまり、テレビゲームとは、遊びに必要な三つの要素、遊び道具と遊び場、そして遊び相手が、すべて一体となったものなのだ。
 既存きそんのおもちゃや道具の中にも、たとえばバッティングセンターのように、メカニカルな仕組みがヒトの代替だいたいとして「相手をしてくれる」ものがないことはないが、対戦プレイの相手、あるいはチームの味方として「ヒトのようなふるまい」をすることはない。また、テレビや本といった伝統的なマスメディアは、情報の伝達が一方向であるがゆえに、「相手をしてくれる」状態にはならない。電話のような双方向そうほうこうメディアは、常に実際のヒトを必要としてきた。つまり、おもちゃであれメディアであれ、ヒト以外の存在が「ヒトのようにふるまい、相手をする」現象はこれまでなかった。
 機械に組み込まく こ れたソフトウェアが「遊び相手」をすること、そしてソフトウェアであるがゆえに複製、大量生産が非常に簡単だったこと。これこそが、メディアとしてのテレビゲームのユニークさなのである。
 テレビゲームが既存きそんのメディアとどう異なるのか、別の角度から明らかにするために、既存きそんメディアの性質を比較ひかくしてみたい。それぞれのメディアを、実際のヒトの行為こうい置き換えお か てみると、どのような状態といえるのだろうか。
 テレビ番組や映画の多くは、目の前で「演じているヒト」をメディアに載るの 形式にして複製したものである。音楽CDやラジオは「演奏するヒト」のメディア化であり、本、ラジオ、テレビは「演説」のメディア化ということができる。これらはすべて、舞台ぶたいの上から一方向的に演じられる形式のものだ。
 テレビゲームはどうだろう。映像も音楽もテキストも含まふく れているため、「演じられる」部分もあるが、決定的な違いちが は、自分自身も舞台ぶたいに立っていることだ。演じるのも演奏するのもゲームをす
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るのも、英語ではすべて「プレイ」である。しかし、既存きそんメディアの場合、プレイするのは「かれ彼女かのじょたち」である。主語が「自分」になるのは、テレビゲームだけなのである。
 そして、ゲームをヒトに置き換えるお か  とすれば、やはり「遊び相手」のメディア化というのがふさわしい。その「相手」は、遊び場と遊び道具を用意し、遊び方を教えてくれ、あるときは頼もしいたの   同志、ときには極悪非道の「敵キャラ」にもなる、変幻へんげん自在の遊び相手なのである。しかも、こちらがスイッチを切らないかぎり、何時間でもつきあってくれる。
 これは、産業革命が「労働」に与えあた 影響えいきょうと同質のものといえるのではないだろうか。産業革命の本質は、前期においてはハイパワー化、後期においては規格品の大量生産(フォーディズム)だと思われるが、ゲーム世界において、何にでも変身できるパワーを持った「遊び相手」が大量生産されたことは、遊戯ゆうぎに革命を起こしたといっても過言ではない。
 ここで、マクルーハンのメディア概念がいねんが有効になる。テレビや映画、ラジオ、本といった既存きそんメディアは、受け手から考えたとき「眼と耳の拡張」である。視覚、聴覚ちょうかくの情報を時間と空間を超えこ て届けてくれる。産業革命が起こした変化は「手足の拡張」ということができる。石炭掘削くっさく機も自動車も、ヒトの手足をハイパワー化したものなのだ。そして、遊び相手のメディア化であるテレビゲームとは、「脳の拡張」といっても差し支えないだろう。もちろん、コンピュータ技術自体が、もともと「計算するヒト」の機械化であり、筋肉や骨ではなく、脳の拡張としての要素を持っていたのだが、それを最初に大衆化したのがテレビゲームであるという事実の重要性が揺らぐゆ  ものではない。

「テレビゲーム文化論」より)
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