1生命が大事だとか、基本的人権は尊重すべきだとか、平和は守らなければならないとか、国は保持しなければならないとか、人類は進歩しなければならないといった様々な価値観を君たちは抱いているだろうが、君たちが当り前だと思っている価値判断自体が、すべてある種のイデオロギーであり、また思想でもある。2けれども、君たちはそれが思想であることを意識していない。意識せずにまるでそういう価値観を自分の頭で考えだしたように思い込み、思い込んだ上で信じこんでいる、のだ。3これは知的というには程遠い状態ではないか? これまでの思想の体系なり、その論点を知ることは、自分が抱いてしまっている価値観を相対化するとともに、その価値観が成立している論理の仕組みや、その価値が本質的にめざしているのは何なのか、という事が理解できるだろう。
4いかにも当世風な論法ではあるけれど、このような具合に諭してやる事はできるだろうし、それは現在の大学教育においても通用する理屈ではあり、多少とも明敏な学生はその意味を理解するだろうが、この答えを組み立ててみても自分として納得しきれない部分があるのもまた事実であった。5敏い者は敏い者なりに理解するだろうが、それはそれだけの事ではないか。あるいは今私の展開したような観点から、思想を語る事、知る事に魅力を感じ、そうした営みをはじめる人間もいるかもしれない。6けれどもそれははたして思想なのか。巧みに売り込まれた、処方箋じみたものにすぎないのではないか。
そのように考えたのはその二、三日前に、若い人から送られてきた本の冒頭のエピソードが気になっていたからである。7その話は著作の内容とはあまり関係がないのだが、大学で文学の研究職にある筆者が、若い官僚に遺伝子操作なり超伝導なりといった技術に進歩をもたらすのが「研究」ということであって、文学の「研究」をいくらしても、文学の進歩に貢献をしないのならばそれは「研究」という名に値しないのではないか、と酒場で絡まれたというのである(『モダンの近似値』阿部公彦)。8若い役人の発言もまた、反知的であるという点については、私のキャンパスの学生の発言と同様である。と同時に学生の発言の背景にあるものを、ある程
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