a 長文 10.1週 wapu2
 地球上の生物は、どの生物も、遺伝子的な仕組みは同じとされます。遺伝子的な仕組みは同じでも、生命活動のやり方は、たとえば植物と人間ではひどく異なります。実は、どの植物も、また人間を含むふく どの動物も、それぞれ独特のやり方をしているとも言えます。人間も、コウモリと同様、地球上で何か特別な存在というのではありませんが、その生命活動のやり方は、光ではなくて音を使って外界を把握はあくする独自のシステムを発達させたコウモリの場合と同様、実はひどく変わっていると言えるのではないでしょうか。
 人間の場合の特殊とくしゅ性は、たとえば大脳皮質の可塑かそ性がそれを象徴しょうちょう的に示していると思います。人間の人間らしい、人間に特有の活動を可能にする能力とか可能性というのは、それがどういうものであるにせよ、大脳皮質のような身体的部位に、実現される可能性のすべてがあらかじめ書き込まか こ れているというようなことはないと考えられます。たとえば言語能力というものは、具体的には日本語を話したり理解したりする能力として、あるいは英語を話したり理解したりする能力として実現されますが、最初からそういうものとしてあったということではなくて、最初は、言語能力一般いっぱんとして(というよりは、言語能力以外の能力をも可能にするもっと一般いっぱん的な能力とか可能性として)あったと考えられます。そのような能力のことを、ここでは、第一次的な可能性と呼ぶことにしたいと思います。それに対して、実際に実現された日本語の能力のようなものは、第二次的な能力ということになります。
 遺伝子的な仕組みによって最初に実現される、大脳皮質のような身体的組成というものは、人間の場合、第一次的な可能性ないし能力の、ある意味では、全体であると考えられます。私たちの生きている身体そのものは、おおざっぱには、私たちの能力とか可能性の総体であると言うことができると思います。他方、日本語とか英語というようなものは、それ自体は文化的構築物であって、遺伝子的な仕組みの外にあるものです。それは、直接的に身体組成の延長上にあるものとは言えないと思います。しかし、私たちはそれを内部に取り込んと こ で、身体的能力の一部として実現するのだと思います。この「外部にある文化的な構築物を、第二次的な能力を実現する際に、内部に取り込むと こ 」というやり方、これが人間の場合には決定的な意味を持つのだと考えられます。
 感情についても、言語及びおよ 言語以外の文化的構築物(身体的動
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作とか表情)に依存いぞんする部分があると言える分だけ、言語能力の場合と同じように考えてよいと思われます。感情に関わる基本的な能力というものは、遺伝子的な仕組みによってヒト(注ホモ・サピエンス)としての私たちに備わっていると言えます。しかし、そのような能力は、何らか後天的に養育ないし教育されることによって文化的変容を遂げると  (そのようにして、外部にあるものを内部に取り込むと こ )ということがなければ、結局は、動物と同様の水準にある、原始的な「叫び声さけ ごえ」とか「唸りうな 声」として発現するような能力として止まり続ける以外にないと思われます。
 さて、ここからが問題です。自然種としてのヒトという生き物は、そういう意味では、ある仕方でそのあり方そのものが変わって別の存在になる、それが人間になるということである、そう考えるべきであるように思われます。私たちの正体は、もちろん、ヒトなのですが、何か「あり方の本質的な変化」とでも言うべきものが「ヒト」と「人間」の間にはあるということになるのだと思います。この変化は、私たち現生人類の歴史上、そう遠くない、ある時点で起こった出来事であると思うのですが、上で言ったことからすれば、実はそれは現代社会に生きる私たち一人ひとりに生じるものでもあると考えるべきでしょう。人間の場合の特殊とくしゅ性というのは、私たち一人ひとりの問題だからです。
(中略)
 言語能力は、直接的に身体組成の延長上にあるものとして考えることはできないと言いましたが、ある意味では、身体的能力を拡張することによって実現することができる一種の実践じっせん的能力として考えることができるものだと思います。最も単純に言えば、私たちの言語というのは、もともとは音声だからです。もちろん、音声ですと言って、それですむような、単純なものではありません。言語能力は、自転車に乗るとか泳ぐといった能力が形成される場合と同じように、間違いまちが なく、後天的に訓練を重ねて形成されることになる実践じっせん的能力ですが、これがどのような能力かということを理論的に説明するとなると、ひどく難しいことになります。ここでは、言語を使用する能力がどういうものかという話はしませんが、それは実践じっせん的能力の一つであるということをとにかく強調しておきたいと思います。(略)
 私たちがヒトから人間になるプロセスというのが、以上のような
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長文 10.1週 wapu2のつづき
言語習得に関する考え方をモデルとすることができるようなプロセスだとしますと、私たちがヒトから人間になる変容というのは、実に奇妙きみょうなものだということになります。あたかもそれは、進化のプロセスを継続けいぞくするために、身体的な組成を決定するものである、身体内部の遺伝子的な仕組みを利用するだけでは足りなくなって、身体外部の、文化的な記憶きおくの仕組みを利用しなければならなくなったかのようです。人間というのは、本当にそのような、奇妙きみょうな存在なのでしょうか。

岡部おかべ勉「合理的とはどういうことか」)
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