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 地球規模で自然環境かんきょうが危機にひんしている現代にあって、地球環境かんきょう問題は、国境を超えこ 広範こうはんな地域で考えられねばならない問題である。その原因は個人や企業きぎょう、街や地域などの環境かんきょう負荷の総和から成り立っている。つまりすべての自然環境かんきょう問題には人間が関与かんよしているのであって、その背景には環境かんきょうの保全と育成を怠っおこた た人間優先の姿勢がうかがわれる。この反省のもとに、近年とくに地球の生態系に目を向けた取り組みが急速な勢いで高まりをみせている。
 人間中心主義による環境かんきょう破壊はかいを反省し、「他者」としての自然を修復し育てるための活動が、現在のエコ活動の本論となっている。そしてここでもまた人類総体として、グローバルな見地から巨大きょだい貢献こうけん心が発動され、地球規模での自然環境かんきょうを「他者」とする種々な取り組みが進められている。ところが現実に進行しているエコ活動のなかには、本来の貢献こうけん活動から考えると意味を異にする内容があるような気がしてならない。貢献こうけん心の視点からこれらの問題点を考えてみよう。
 たとえば有限な資源である化石資源(石油や石炭)を守ることは持続的な経済にとって大切なことである。他方、代替だいたいエネルギーとして開発が進められている原子力発電には、環境かんきょう上の深刻な問題が取り沙汰と ざたされている。またオゾン層を破壊はかいする原因として、フロンガスの影響えいきょうがクローズアップされ、さらに新たに開発された物質については、もっと強い温室効果が囁かささや れている。
 それだけではない。人口爆発ばくはつ指摘してきされるアフリカや東南アジア地域の食糧しょくりょう確保の問題は深刻だ。最大の食糧しょくりょう輸出国である米国では世界の食糧しょくりょう事情を改善させるという名目で、無制限な大規模農法を行った結果、地下水脈を枯渇こかつさせて、土壌どじょうの悪化に拍車はくしゃをかけてしまった。たとえば米国中部にある広大なプレイリー地域の生態系に起きた異変は、大規模農法による弊害へいがいとされ、枯渇こかつしてしまった水脈を修復するには何万年という自然放置期間が必要とさ
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れるといわれている。
 これらの例に見るように、人間が自然を利用して何らかの問題に取り組もうとして開発した方法が、次々と新たな自然破壊はかいをもたらすといった悪循環あくじゅんかん指摘してきされているのである。
 そこには人間中心の開発主義があった。つまり人間が必要とする活動によって自然環境かんきょうがダメージを受け、その結果、不都合なことが起きたから、今度はエコ活動を進めて、人間にとって都合のよいものに開発していこうとする考え方である。
 さて、ここで見えてくるエコ活動には、私が言う貢献こうけん心はまったく示されていない。なぜなら人間が「自然」のためにとの名目で、実は「自分」のために行う行為こういに、他者である自然に向けての「貢献こうけん」の意識は欠落しているからだ。その実態はむしろ「エコ」ではなく「エゴ」である。
 たとえ手前勝手でも、自然環境かんきょうについて考えたり、またみずみずしい自然を回復したいと願う自然な動機は間違っまちが てはいない。ただしそんな純粋じゅんすいな動機でさえ、あまりにも特定の自然に集中していると、ふと気がつくと自分勝手なものに陥っおちい て、自然を破壊はかいしてしまう方向に向かってしまう。このような動きに私たちは監視かんしの目を怠っおこた てはならない。そのため現在のエコ活動にある発想をもう一度検証してみる必要性はないだろうか。
 現在、G7や環境かんきょうサミットなど、世界のトップが集まって提起されるグローバルな宣言についても、やはり「これからは人間中心の発想で問題を解決する」といった方向性が示されているが、私にはそう簡単には受け止めがたい。なぜなら、そこには依然としていぜん   「人間中心」といった発想に含まふく れる「開発至上主義」的なニュアンスに歯止めがかけられてはいないように思われるからだ。実は、この「人間中心主義」こそ、人類を「開発至上主義」に向かわせたそのものの原因となったからである。

たき久雄ひさお貢献こうけんする気持ち」による)
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