a 長文 8.4週 wapi2
 人間と動物との差異について思いをめぐらしているとき、いつもわたしの脳裡のうりにこびりついて離れはな ないひとつの情景がある。それは未開人が狩りか にでかけるまえ、その狩りか の実りゆたかさを祈っいの てか、やりをたかだかとかざしつつ焚火たきびをかこんで狂気きょうきのように乱舞らんぶしているその傍らかたわ に、一ぴきのイヌが不審ふしんそうに首をかしげつつそれを眺めなが ている――そうした情景、あるいはそれに類似した情景である。
 ピアジェの理論によれば、模倣もほうと遊びとの発達は、感覚=運動的次元での調節と同化との不均衡ふきんこう環境かんきょうへの不適応にもとづくものだとのことだったが、それではなぜ幼児は、もっと直接的に適応自体のために努力しないで、ほとんどすべての時間を模倣もほうや遊びの非現実的世界の形成に傾注けいちゅうしてしまっているのだろうか? これにたいしてかれは、つぎのように答えている――幼児が感覚=運動的次元の直接性を超えこ 、時間・空間の両面で拡大された物理的実在に、またますます複雑化してゆく社会的実在に面接するとき、もはや同化と調節との直接的な均衡きんこうを実現することはできなくなり、あるときは調節することなく同化に、またあるときは同化することなく調節に赴いおもむ てしまうのであって、操作システムがあらわれてきたとき(七、八さいごろ)にのみ、この不均衡ふきんこう克服こくふくされてはじめて恒久こうきゅう的な均衡きんこうが達成されるのである、と。いちおう尤ももっと な理論ではあるが、しかし、これでは遊びが人間では成年に達してのちも末ながく、牢固ろうことして残ってしまうこと(つまりネオテニー現象)の理由が、十分に説明されないようにおもわれる。ほんとうは、人間には「恒久こうきゅう的な均衡きんこう」なぞあり得べくもないのであって、人間は存在そのものにおいて、ピアジェの楽天的な理論では押えおさ られないほど、不均衡ふきんこうで不安定な存在なのではないか。人間は自分では解決できないような課題をはじめから背負いこんでしまっていて、大人になっても真に適応することなぞできはしないのではないか。「人間は遊ぶときにのみ、完全な人間である」というシラー
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の有名な言葉は、ほんとうはそのままただちに、「完全な人間とは、すなわち不完全な生物である」と、読みなおされねばならぬのではないのか。
 ピアジェの理論成果をわたしたちのテーマにひきつけて解釈かいしゃくしなおすとき、人間が人間固有の文化形成をおこなうその根のところには、模倣もほうと遊びとが存在する、より単純化して言えば――というのは、模倣もほうの真の完成たる模倣もほうのための模倣もほう、表象的模倣もほうは、そのまま同時に遊びの一種、象徴しょうちょう的遊びでもあるのだから――遊びこそが存在する、ということになろう。なぜなら、模倣もほうと遊びこそが表象的次元を開くのであり、またその表象的次元の開幕を待ってはじめて人間文化がそのいとぐちにつくのであるからだ。その意味では、まことにJ・ホイジンハが言うとおり、文化の起源には遊びがあり、文化はその総体において遊び的性格をもち、人生とは一場の人間喜劇だ、とも言えるであろう。だが、ここでわたしたちは、ホイジンハのように早まってはならない。ここでいう遊びとは、なにも経験的な意味での遊びではないはずだからだ。もしも文化総体、人生総体が経験的意味での遊びだということになれば、論理必然的に、遊びと真面目仕事との経験的区別さえなくなってしまうであろう。そうではなくて、ここで問題になる遊びとは、経験的次元で遊びと同時に仕事をも可能にするもの、つまりは人間的経験一般いっぱんを可能にするものであり、そういうものとして、いわば超越ちょうえつ論的な遊び、ここであえてカントの用語をりれば生産的想像力、ないしは先験的想像力とでも言うべきものである。この生産的想像力に裏から支えられて、わたしたちははじめて経験的次元で、人間としての遊びも仕事もともに営むことができるようになるのである。

(竹内芳郎『文化の理論のために』)
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