1人間と動物との差異について思いをめぐらしているとき、いつもわたしの脳裡にこびりついて離れないひとつの情景がある。2それは未開人が狩りにでかけるまえ、その狩りの実りゆたかさを祈ってか、槍をたかだかとかざしつつ焚火をかこんで狂気のように乱舞しているその傍らに、一匹のイヌが不審そうに首をかしげつつそれを眺めている――そうした情景、あるいはそれに類似した情景である。
3ピアジェの理論によれば、模倣と遊びとの発達は、感覚=運動的次元での調節と同化との不均衡、環境への不適応にもとづくものだとのことだったが、それではなぜ幼児は、もっと直接的に適応自体のために努力しないで、ほとんどすべての時間を模倣や遊びの非現実的世界の形成に傾注してしまっているのだろうか? 4これにたいして彼は、つぎのように答えている――幼児が感覚=運動的次元の直接性を超え、時間・空間の両面で拡大された物理的実在に、またますます複雑化してゆく社会的実在に面接するとき、もはや同化と調節との直接的な均衡を実現することはできなくなり、5あるときは調節することなく同化に、またあるときは同化することなく調節に赴いてしまうのであって、操作システムがあらわれてきたとき(七、八歳ごろ)にのみ、この不均衡は克服されてはじめて恒久的な均衡が達成されるのである、と。6いちおう尤もな理論ではあるが、しかし、これでは遊びが人間では成年に達してのちも末ながく、牢固として残ってしまうこと(つまりネオテニー現象)の理由が、十分に説明されないようにおもわれる。7ほんとうは、人間には「恒久的な均衡」なぞあり得べくもないのであって、人間は存在そのものにおいて、ピアジェの楽天的な理論では押えられないほど、不均衡で不安定な存在なのではないか。8人間は自分では解決できないような課題をはじめから背負いこんでしまっていて、大人になっても真に適応することなぞできはしないのではないか。9「人間は遊ぶときにのみ、完全な人間である」というシラー
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