1二〇世紀という時代は、言語学と記号学の隆盛を見た時代として記録されることだろう。ぼく自身は、どちらの専門家ともいえないにせよ、今世紀の主だった哲学者たちをとおして、言語学と記号学にそれなりの関心を寄せてきたつもりだ。2特に、イタリアの哲学者で小説家でもあるエーコの著作には、ずいぶんとお世話になった。このエーコによる記号の定義は、明快そのものだ。記号とは、それによって嘘をつけるもののことだというのである。
3確かに、ぼくたちがあれこれと指示できるものの存在に縛られたままだったとすれば、そもそも記号世界など存在しえないのかもしれない。鳩がいたら鳩を示し、猿がいたら猿を示す。それだけのことだったろう。4しかし、言語記号によって、鳩がいなくても、「鳩がいる」と表現し、猿がいても、「猿はいない」と表現することができ、そういった表現によって指示対象のあるなしにかかわらず、しかるべき意味を伝えることができるのである。
5エーコの記号学は、指示対象と記号内容とを峻別するところに立ち、それはそれで十分に説得力をもつ。ただ、最近思うのは、そもそも嘘をつこうとする意志についてだ。6もちろん、記号というものがあるからこそ、誰であれ、嘘をつくことができるのだろうが、嘘をつこうとする意志については、それは、言語学や記号学の手に余るのかもしれない。7しかしその一方で、嘘をつこうとする意志の存在を考慮しないかぎり、言語や記号の研究も、どこか空虚なものとなりはてるのではないか。そんなことを漠然とながら考えるようになったのである。
8そうなるに当たっては、グラシアンを読み直しはじめたのが大きかったろう。グラシアンは、ちょうどデカルトと同時代のスペインの著作家だ。9実践哲学としては、見かけや外観の徹底的な活用を説いたことで知られる。そのように説いた根底には、この世は敵意に対する戦いからなるという世界観があった。見かけや外観の効用とは、他面では隠蔽や偽装の効用でもある。0顔つきや言葉から手の内を見透かされないように、とでもいえばよいだろうか。これ
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