1知識の生産過程が人間の主観的内面世界での思索にかかわるということは、しかしその産物としての知識が個人の主観を超えた客観的存在であることを妨げませんし、またその形成過程に客観的な要因が作用することを排除するものではありません。2知識のこの二重性は、認識哲学と経験社会学とをいわば両親とした子供である知識社会学という学問分野を生み出しました。3知識社会学の主題は、シェーラーの言い方にしたがえば人間の思考作用における「理念的」要因と「実在的」要因とがどのようにかかわり合っているかという問題であり、またマンハイムの言い方にしたがえば、人間の思考作用が「存在諸要因」によってどのように拘束されているかという問題です。4シェーラーとマンハイムに共通しているのは、一方で認識や思考が精神的・主観的な過程であることを強調しながら、他方でその中に客観的とりわけ社会的過程が入り込んでくることを同時に強調する、という二重性にあるといえましょう。
5さてここで私がいいたいのは、情報にはこのような二重性はないということです。このことを、つぎの三点に分けて考えましょう。
第一に、情報は具体的な事実の生起についての伝達であって、受け手が直接体験し得ない事柄について、経験の範囲を拡大してくれる、経験の代用物です。6ということは、経験それ自体には主観的内面における加工・解釈・推理などは含まれていないのですから、情報もそれらのものを含まない、ということを意味します。情報は知識の素材であり得るけれども、知識そのものではないというべきではないか。
7第二に、情報は瞬間的であって反復されず、したがって人の内面的世界において蓄積されたり、累積的に進歩したりすることがありません。情報はルーマンがいうように、意外性を生命とする――意外なニュースほど価値が高い――ものです。8いうまでもなく、意外性というのは一回限りのもので、反復され得ず蓄積され得ません。これに対して、知識は反復され、記憶され、蓄積されていくものです。
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