a 長文 8.4週 wapi
 何について、責任が問題となるのか? まず何よりも、行為こういにかんして、である。しかも、みずから何かを行うという行為こういだけでなく、何事かをしないという無為むいも、また他人が何かをするのを助ける・やめさせる行為こういをもふくめ、まずは行為こういにかんしてこそ、責任が問題となる。
 もちろん、行為こうい無為むいにかんして「他のようにはできなかった?」と問われるとき、その問は、その人の心理的・人格的な特性や、そのときの思考・感情にまで及ぶおよ 。しかし、繰り返せく かえ ば、そうした事柄ことがらにまで責任の問題が及ぶおよ のは、行為こういのありようが問われるからである。そのかぎりで、まずもって行為こうい焦点しょうてんを合わせるのは不当なことではない。
 では、だれが責任を負うのか?「行為こういした個人が」という答は、自明のようにも思える。しかし事態は、つねにそう単純であるとはかぎらない。なるほど、行為こういするのは、個人である。少なくとも行為こういは、意味を帯びた身体のふるまいにおいて遂行すいこうされるかぎり、身体なき存在は、行為こういできない。しかし、だからと言って、行為こういの責任を負うのは、当の個人にかぎられる、ということにはならない。
 このことが如実にょじつに問題となるのは、会社や国家といった組織が「集合的な行為こうい」を遂行すいこうするばあいである。しかし、会社や国家は、個人が行為こういするのと同じ仕方で、行為こういするのではない。ここでは、もっぱら個人に焦点しょうてんを合わせて、行為こういの責任を考えてみたい。
 個人が行為こういするときには、何の前提もなしに、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、体が動くのではない。その人は、その人なりに状況じょうきょうを認知し、自分の欲求や、まわりからの期待や、自分の願望にもとづいて決断し、意図的に体を動かして、行為こういしている。何気ないささいな行為こういにおいてさえ、状況じょうきょうの認知・周囲の人たちの
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抱いいだ ている予期・期待、当人の中長期の計画などなど、多くのことが前提となっている。
 もし、状況じょうきょう認知・周囲からの期待・本人の計画といった行為こういの前提のいっさいが、その個人に由来し、その人によって自由に制御せいぎょできるのであれば、そのばあいには、行為こういにかかわる責任は、すべてその人にある、ということになろう。しかし、実際には、そうではない。状況じょうきょう認知・期待・欲求などなどといった行為こういの前提の多くは、まわりの人たちとの関係によって生じている。したがって、誤った情報を与えあた られたまま、あるいは過剰かじょうな期待を負わされたまま、その人が決断したときには、「本人がそう選択せんたくしたのだから、かれ彼女かのじょに全責任がある」とは言えない。そう決めつけるのは、実態とずれており、ばあいによっては苛酷かこくである。
 もちろん、だからといって、「本人が編み込まあ こ れていた関係が悪かった、環境かんきょうが悪かった」といった責任転嫁てんかが、つねに正当化されるわけではない。催眠さいみん術にかけられていたとか、舞踏ぶとう病で体が勝手に動いたとでもいうのでないかぎり、私たちは、自分が行為こういした理由(わけ)を問われる。思わず、あるいは何気なく行為こういしてしまって、自分でも理由を説明できないとしても、舞踏ぶとう病で体が勝手に動いてしまったのでもないかぎり、私たちは、自分の行為こういに責任を負っている。しかし、もし誤った情報を与えあた られて、あるいは過大な期待を負わされて、あるいは脅迫きょうはくされて、そう行為こういすることを選んだのであれば、誤った情報を与えあた た者、過大な期待を負わせたり脅迫きょうはくした者にも、その責任があるはずである。

(大庭健『「責任」ってなに?』による。一部改変)
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