何について、責任が問題となるのか? まず何よりも、行為にかんして、である。しかも、みずから何かを行うという行為だけでなく、何事かをしないという無為も、また他人が何かをするのを助ける・やめさせる行為をもふくめ、まずは行為にかんしてこそ、責任が問題となる。
もちろん、行為・無為にかんして「他のようにはできなかった?」と問われるとき、その問は、その人の心理的・人格的な特性や、そのときの思考・感情にまで及ぶ。しかし、繰り返せば、そうした事柄にまで責任の問題が及ぶのは、行為のありようが問われるからである。そのかぎりで、まずもって行為に焦点を合わせるのは不当なことではない。
では、誰が責任を負うのか?「行為した個人が」という答は、自明のようにも思える。しかし事態は、つねにそう単純であるとはかぎらない。なるほど、行為するのは、個人である。少なくとも行為は、意味を帯びた身体のふるまいにおいて遂行されるかぎり、身体なき存在は、行為できない。しかし、だからと言って、行為の責任を負うのは、当の個人にかぎられる、ということにはならない。
このことが如実に問題となるのは、会社や国家といった組織が「集合的な行為」を遂行するばあいである。しかし、会社や国家は、個人が行為するのと同じ仕方で、行為するのではない。ここでは、もっぱら個人に焦点を合わせて、行為の責任を考えてみたい。
個人が行為するときには、何の前提もなしに、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、体が動くのではない。その人は、その人なりに状況を認知し、自分の欲求や、まわりからの期待や、自分の願望にもとづいて決断し、意図的に体を動かして、行為している。何気ないささいな行為においてさえ、状況の認知・周囲の人たちの
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