a 長文 8.3週 wapi
 もう一つの体験は、かれの目の前で起きたイスラーム教徒の殺人であった。センが住んでいた地域一帯でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の暴力的な抗争こうそうが激化している中、イスラーム教徒の日雇いひやと 労働者だったその男は仕事をなくし、家にあった食べ物も底をつき、家族は飢えう ていた。それでやむをえず、かれはわずかな報酬ほうしゅう引き替えひ か たきぎをとどけるため、抗争こうそうのまっただ中をヒンドゥー教徒の居住する地区に出てきたのだった。通りでヒンドゥー教の暴徒に背中を刺ささ れたその男は、センの家に助けを求めて転がり込んころ  こ できたのだが、結局病院に運ばれる途中とちゅうで死んでしまったという。
 ここでもまた「出来事」はそれだけで十分に悲惨ひさんだ。しかし単なる悲劇ということをこえて、同じ暴力的抗争こうそうという事態の中で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うことになったのか、なぜかれが危険を冒さおか なければならないような状況じょうきょう陥っおちい たのかということを考えれば、たとえ暴力的抗争こうそうという特別な事態でなくても、日頃ひごろからイスラーム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職にしか就いておらず、何かあれば職を失いやすいような境遇きょうぐうにあったという社会的状況じょうきょうが見えてきただろう。先の飢饉ききんの場合と同じように、同じ境遇きょうぐうや条件の中であってもそこには変化に対して影響えいきょうを受けやすい「だれか」がいるのであり、いったん社会的な変動が起これば、その「だれか」が真っ先に被害ひがい被るこうむ ことになる。そしてその「だれか」は、決してでたらめに出てくるのではない。特定の地域の人々やなんらかの職業集団といったかたちでまとまって、以前からそこにあった社会的条件と関係しながら、そのような人々が「選びだされて」いってしまう。飢饉ききんだからといってみな飢えるう  わけではなく、暴動だからといってだれもが殺されるわけでもなく、このように同じ状況じょうきょう下にあるからといって、だれにでも同じように惨禍さんかがふりかかるわけではないのだ。
 
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飢饉ききん飢餓きがが、直接食糧しょくりょうの不足によって引き起こされるのではなく、また暴力的抗争こうそうの中で殺されたり傷つけられたりするといったことが、単純に出来事の「暴力性」からくるのではないというのであれば、そこにセンが語るように「社会的なもの」のはたらきを探ることができる。
 たとえば、身体的なハンディキャップというものを考えてみると分かりやすいかもしれない。同じものをもっていても、同じ条件のもとで生活していても、身体的にハンディがあれば他の人と「同じように」それを利用することはできないし、災害などに見舞わみま れれば、真っ先に不利な状況じょうきょうにおかれるのはこのような人たちだ。しかし、もう少し見えにくい社会的なハンディキャップといえるものもある。イスラーム教徒だというだけで職を失ってしまった男などはその例だろうし、また「外国人出稼ぎでかせ 労働者」として異国で生活しなければならない人たちの多くは、「権利」や「法」という点で仮に百歩譲っゆず て平等だとしても、普通ふつうはその権利を行使できたり、法を持ち出してものごとを要求したりすることができるような立場にはいない。ドイツに出稼ぎでかせ に行ったあるトルコ人は、カフェに入って、ようやく覚えた言いかたで「コーヒーを下さい」と言ったけれど、コーヒーは出てこないで「おまえの来るところではない」という視線を向けられただけだったと語っているが、コーヒーくらいならともかく、これが食糧しょくりょう不足とでもなろうものなら、真っ先に食べ物を売ってもらえなくなるのはこのような人たちということになるだろう。こうして彼らかれ は「被害ひがいを受けやすく」なってしまうのだ。そして、このようなハンディは「もの」の量や、「権利」や「法」の平等だけでなんとかなるというものではない、きわめて社会的かつ文化的なものなのである。

岡本おかもと真佐子まさこ「開発と文化」より)
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