一般に「現代の精神的状況における自我の問題」云々という場合、そこにはあるべき「自我」についての了解がすでにあり、それが歪められ、しかも今日では失われているという見地が前提に含まれている。しかしそうして歪みや喪失を、かりにわれわれが日本人とその社会について倫理的に糾弾してもあまり有意味ではないだろう。なぜならもともと「自我」概念そのものが、すぐれて近代哲学の産物であり、その哲学とはソクラテスや、ルターや、フランス革命などを経てきた西洋の伝統だからである。
またそれだけに、「自我の形骸化」は西洋人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆」をキーワードとしたヤスパースの状況判断なども、単に冷徹な時代分析というようなものではなく、あるべき「自我」の喪失への危機感に裏打ちされた切実なものであった。だとすれば、そうした思想伝統を持たない日本人の場合に、「自我」の「喪失」云々を言うことは本来できないはずであろう。
ただ、「自我」概念が輸入された明治期には、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な自我という観念は、単なる浪漫主義に尽きるものではなく、それにはそれなりのリアリティーがあった。旧来の封建制度や、その因習から生じるさまざまな抑圧に対する反抗を通じて「自我」が強調されたからである。すなわち、克服されるべき過去の遺物への「反」として強調された。だが、今日のわれわれの社会ではそうした抑圧も因習も多くは姿を消し、形だけが受容された「自我」概念も、それに伴い中身は急速に曖昧かつ稀薄になってきている。そう感じるのは私だけであろうか。
西洋近代の啓蒙思想、科学、民主主義等を受容した後の、とくに戦後の日本で教育されたわれわれは、「自我」を確立すべきだとか、他人も自分と同じようにそれぞれの自我を持っているに違いないと容易に信じてしまう。学校教育の場でも「主体性のある人間」が目標に掲げられる。「自らの意志で考え、行動を選択し、決定す
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