1科学技術は地域や民族の差異を越え、それゆえにヨーロッパに生まれたという出自の制約を抜け出て、全地球に広がった。その普遍性は、あたかもすべてを均等にきりそろえる刃物のような硬さをもって地域文化を水平化し、生活空間を均一化し、社会システムを一元化していく。2その傾向は「硬い普遍性」をもっている。それに対し、文化は特定の地域の伝統や民族のエトスに育まれるものとして本性上ローカルな性格をもちながら、しかも、ある「柔らかい普遍性」をふくんでいる。文化の柔らかい普遍性は、究極的には宗教の普遍性にあらわれるといってよいであろう。3宗教はかならずその発生地のローカルな神観念や自然観と密接にむすびつき、民族宗教的でありながら、しかも人間の生死にかかわる事柄として、大なり小なりユニヴァーサルで世界宗教的な側面をもつのである。
4簡単な言い方をすれば、ヨーロッパにおいては、科学技術の硬い普遍性と文化の柔らかい普遍性とは根本的には対立することなく、いわば同心円をなしたのである。それは科学技術が自らの精神の自発自展だったということと同じである。5厳密に言えば、「技術」を受け入れる地盤に文化のエトスがふくまれる以上、技術それ自体は必ずその内に「柔らかい普遍性」をふくむはずである。一元性の硬さは、厳密には技術にではなくて科学に帰せられる。6ヨーロッパでは、科学の思考が自らの精神そのものに胚胎していたがゆえに、柔らかさの中心が硬い科学技術の殻を形成したといえる。
そのことは一見普遍的に見えたヨーロッパ的世界が、実はひとつのローカルな地域であることを意味する。7もちろん科学技術によって可能となった牧歌的「文明」が、「文化」の精神性を脅かすという危機意識は、いろいろな思想家において表明された。しかし、それは、ヨーロッパ精神の内部での危機意識にとどまっていたのである。8それはどこまでも「自己」批判であり、その自己のうちに非ヨーロッパ世界という「他者」を含むことはなかった。
それに対して、日本近代がヨーロッパ近代の受容をともなって成立したとき、両者は同心円を形成するわけではなかった。9硬い普遍性と柔らかい普遍性とは、いわばそれぞれの中心をずらして
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