長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
新しい言葉の指す新しい事柄を人はどうやって理解するのか。そこにはほとんど常に、既知の事柄へのなぞらえという作業があるのではないだろうか。こうした観点から「なぞらえ」が人の概念体系の根底にあることを説くのがレイコフとジョンソンである。
彼らの共著『レトリックと人生』の主旨を一言で要約するなら、「われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っている」ということである。彼らの言う「メタファー」は表現技巧としての隠喩ではない。理解や思考のための方略である。彼らの規定によれば「メタファーの本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験することである」。この「メタファー」を日本語にするならば、「隠喩」よりも「なぞらえ」という方が適切であろう。即ち彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほかならない。「筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたい」という彼らの主張は、人の思考がロゴスよりも「なぞらえ」に依存しているということである。
彼らは「概念」を、「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味であり、従って各人が理解しているもののことであると考える。そして、ある概念についての私たちの理解は、その大部分が他の概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは一観念を他の一観念と比較することではない。「理解というものは、経験の領域全体に基づいて生ずるのであって、個々の観念に基づいて生じるのではない」からである。言い換えれば、私たちが理解するものはコトの経験という全体であって、個々の観念はその構成要素にすぎない。むしろ観念はそのコトの中に位置づけられることによって意味を得るのである。「なぞらえ」とは、既に理解ずみの経験領域に基づいて未知の経験領域を理解することである。そこで理解されるものは、二つの領域に共通する経験の「型」である。これをレイコフらは「経験のゲシュタルト」と呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある領域に、別の領域の「経験の
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