a 長文 5.4週 wa
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 新しい言葉の指す新しい事柄を人はどうやって理解するのか。そこにはほとんど常に、既知の事柄へのなぞらえという作業があるのではないだろうか。こうした観点から「なぞらえ」が人の概念体系の根底にあることを説くのがレイコフとジョンソンである。
 彼らの共著『レトリックと人生』の主旨を一言で要約するなら、「われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っている」ということである。彼らの言う「メタファー」は表現技巧としての隠喩ではない。理解や思考のための方略である。彼らの規定によれば「メタファーの本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験することである」。この「メタファー」を日本語にするならば、「隠喩」よりも「なぞらえ」という方が適切であろう。即ち彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほかならない。「筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたい」という彼らの主張は、人の思考がロゴスよりも「なぞらえ」に依存しているということである。
 彼らは「概念」を、「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味であり、従って各人が理解しているもののことであると考える。そして、ある概念についての私たちの理解は、その大部分が他の概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは一観念を他の一観念と比較することではない。「理解というものは、経験の領域全体に基づいて生ずるのであって、個々の観念に基づいて生じるのではない」からである。言い換えれば、私たちが理解するものはコトの経験という全体であって、個々の観念はその構成要素にすぎない。むしろ観念はそのコトの中に位置づけられることによって意味を得るのである。「なぞらえ」とは、既に理解ずみの経験領域に基づいて未知の経験領域を理解することである。そこで理解されるものは、二つの領域に共通する経験の「型」である。これをレイコフらは「経験のゲシュタルト」と呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある領域に、別の領域の「経験の
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ゲシュタルト」をあてはめて、その事柄を理解することなのである。たとえば「議論」についての理解は「戦争」のメタファーに基づいていると彼らが言うとき、それは議論というコトの経験の領域全体、即ち開始があり、敵と味方があり、攻撃と防御があり、勝利と敗北があるという、議論経験の全体が「戦争」と同じ構造をもつものとして理解されているということである。
 さらにレイコフらは言う。
 「重要なことは、私たちは単に戦争用語を用いて議論のことを語っているだけではないということである。議論には現実に勝ち負けがあり、議論の相手は敵とみなされ、相手の議論の立脚点(=陣地)を攻撃し、自分のそれを守る。優勢になったり、劣勢になったりする。戦略をたて、実行に移す。自分の議論の立脚点(=陣地)が守りきれないとわかれば、それを放棄して新たな戦線をしく。議論の中でわれわれが行うことの多くは、部分的ではあるが戦争という概念によって構造を与えられているのである。」
 もちろんレイコフらが念頭においているのは英語の「議論」の概念だが、日本語でも事情は変わらないだろう。もっとも文化が違えば概念が違うことはありうる。そこで彼らは「議論」を「ダンス」のメタファーによって理解している文化を想像してみる。論者は踊り手とみなされ、議論の目的は見た目に美しく論じあうことになる。多分人々は議論について「息が合わない」とか「創造性に乏しく単調だ」とか「中だるみはあったが最後はうまく決まった」などと語るだろう。そして言うまでもなく、概念の異なる文化においては、行動も異なるであろう。
 「われわれは議論を戦争とみなし、戦争をするような議論の仕方をするが、彼らはダンスとみなして、ダンスをするような仕方で議論をする、ということになるであろう。」
 私たちの概念のほとんどは、他の概念への「なぞらえ」によって理解されているということである。従って、私たちの概念体系は「なぞらえ」を原理として構築されているということである。

 (尼ケ崎彬の文章)
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長文 5.4週 waのつづき
 コミュニケーション・システムの場合も、少し以前の交通システムは多分にツリー型だった。だから交通ストがあると社会問題になったわけですが、最近はあまり問題にならない。スト慣れということもありますが、それだけではなく交通システム自体がだんだんネット状になり、代替だいたい経路が確保されるようになったということがあります。ツリー型のシステムでは、二つのセットのオーヴァーラップ、重なりあい、そこから生ずる両義性というものは本来許されない。しかし実際のリヴィング・システムでは、あとでのべますように、ツリー型のシステムがそのままであることは珍しくめずら  、裏のシステムや補完システムが非公式に形成されます。
 それにたいしてもう一つのシステム・モデルは網状もうじょう交叉こうさ図式です。(中略)たとえば3というメンバーは1、2、3を含むふく クラスに属すると同時に、3、4、5を含むふく クラスに属しているし、3、4、5、6を含むふく クラスにも属している。そういう点ではある意味での多義性がそこに生まれてくる。
 身の構造は、多分にこういう交叉こうさ網状もうじょう図式の構造をもっている。一般いっぱんに人工的なシステムはツリー的な性格をもつものが多いのにたいして、自然発生的なシステムはセミ・ラティス的あるいはむしろネットワーク的である。クリストファー・アレグザンダーという人は都市デザイナーですが、二〇世紀に考案されたル・コルビュジエからニーマイアー、丹下たんげ健三にいたるすべての都市計画は、全部ツリー型だということをはっきりさせた。それにたいして自然に形成されてきた都市、あるいは最初は計画都市であっても歴史のなかで自然都市に近くなってきた都市(たとえば京都)は、セミ・ラティス的な構造をもっているということを指摘してきしています。
 またさまざまな芸術作品が構成する間テキスト空間とか文化空間というようなものを考えてみると、その構造は多分に交叉こうさ型の網状もうじょう図式となっている。一般いっぱんに人間の生世界にかかわるリヴィング・システムは、たえずクラスが重合し多義的になる。グラフでいえばネットワーク状の形式をもつようになります。(中略)
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 組織図としては、こういう組織をとる会社はまだ少ないわけで、ほとんどの会社がツリー的な組織図をとっている。しかしよく考えてみますと、それでは成りたってゆかない。そこで無意識的にツリーを補完する非公式の制度として活用されているのが、たとえば広い意味での宴会えんかい政治である。つまり一時的に裏の組織がつくられて、宴会えんかいの席ではこの上下関係や業務のなわばりがある程度破られるわけですね。これを〈シャドー・システム〉と呼びたいと思います。組織を考える上で重要なのは、組織図に現われたメインのシステムだけではなく、実際のはたらきの上で補構造をなしているシャドー・システムを含めふく た組織全体のはたらきをとらえることです。
 宴会えんかい政治とまではゆかなくても、たとえば4のメンバーが6のメンバーの仕事と密接に関係することをやっていて、調整したいという場合、ふつうは上司を通して交渉こうしょうしなければいけないけれども、前もって、まあ一杯いっぱいやろうというわけで根回しをするというようなことが行われる。そういうツリー型のシステムの裏の補構造ともいうべきものが、タテ社会ではどうしても必要になってくるのではないか。
 それを意識的に表面化し、公式に制度化する試みが最近盛んになってきました。たとえばプロジェクト・チームというのは、いろんな部署から専門家を選び、元の部署での上下関係はあるていど解体して、そのプロジェクトにふさわしい組織を一時的につくるというアド・ホック・システムです。松戸市に「すぐやる課」というのがあります。あれはツリー型の組織の不備を補い、ネットワーク型のはたらきをもたせるための制度化されたゲリラ型組織ということができます。
 (市川ひろし『「身」の構造』)
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