1知人に「釣り」をするのがいる。ただし、趣味というわけではない。「その間だけ何も考えずにいることが出来るんだ」と、彼は言っている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、景品をせしめようとか、そのこと自体が楽しいから、というのではない。2「あれをしていると一時的に空白になっていられるからね」と言うのである。
このほか「料理」をするというのもいれば「推理小説」を読む、というのもいる。いずれも、仕事としてそれをやっているのでもなければ、趣味としてそれを楽しんでいるのでもない。3奇妙な言い方ではあるが、それらをすることによってしか、「何もしていない」状況が維持出来ない、というわけだ。
これを、趣味の堕落と言うべきか、趣味とは本来そのようなものであると言うべきか、よくわからない。4ともかく現在、「何もしないでいる」状態を、「何もしない」ことで維持することは難しいのである。ぼんやりしているとこれまでの仕事の続き、これからの仕事の予定などが襲来し、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。5「何もしないでいる」ためには、「そうでないこと」を真剣にやることによって、それらを締め出してしまわなければいけないのである。
もちろん「それほどまでにして、何もしないでいる状態なんか作り出さなくたっていいじゃないか。」と、よそ目にはそう思える。6しかし、そうではない。前述した理由で「釣り」をしたり、「パチンコ」をしたり、「料理」をしたりしている人々を見れば、よくわかる。彼らは、酸素の足りなくなった水の中の金魚が、水面に出て口をパクパクさせるように、かなり切迫して「何もしないでいる」ことを求めているのである。
7日常生活における「何もしないでいる」時間というのは、芝居の「暗転」や「幕間」と似ている。多くの観客がここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレに駆けこめるからではない。8無意識にではあれ、それまで「流れ」として連続していた時間を、「積み重ね」として体験し直すことが出来るからであり、その呪縛から逃れ出ることが出来るからである。
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