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 一つの集団は、一人の裏切者と、一人の犠牲ぎせい者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。キリストとユダの伝説が、私にこのヒントを与えあた てくれた。恐らくおそ  あの十三人は、対人関係を独立したメカニズムとして純粋じゅんすい培養ばいようするためのベテラン達だったのであり、またそうせざるを得ない環境かんきょうにおかれていたのだろう。(中略)
 私は、はじめにキリストがあって、そこに十二人が従ったという説を、ほぼ信じない。まず、変転としてとらえどころのない奇妙きみょうな関係の中に十三人が居たのであり、それが果てしない放浪ほうろうの末に、ユダとキリストを生むことによって、一つの「関係」として完成されたのである。
 ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを含むふく 「十三人目」だったに違いちが ないと、私は考えている。そして、何よりも、ユダが「裏切者」として発明されることによってはじめて、キリストが「犠牲ぎせい者」となり得たのであろう。新約時代、彼等かれら十三人が為しな た最大のことは、「裏切者」としてのユダを発明したことであり、むしろキリストを発明したことではなかったのではないかと、私は考えているのだ。(中略)
 創世記に、アブラハムについての奇妙きみょうなエピソードが語られている。「神はアブラハムを試みて言われた。『アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、かれをささげなさい』(中略)彼らかれ が神の示された場所にきたとき、アブラハムは、そこに祭壇さいだんを築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛っしば 祭壇さいだんのたき木の上にのせた。そしてアブラハムが手を差しのべ、刃物はものをとってその子を殺そうとした時、主の使が天からかれを呼んで言った。『アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何もかれにしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえわたしのために惜しまお  ないので、あなたが神を恐れるおそ  者であることをわたしは今知った』」(第三十二章)
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 ここから、私は「裏切者」がやがて発明されねばならないという予感を読み取れそうな気がする。このアブラハムの、神に対して一方的にのめりこんでゆく無気味な心情は、恐らくおそ  一方で自らのうちに「裏切者」を用意しそれに対する憎悪ぞうお相殺そうさいされ、安定する事を期待するに違いちが ないからである。つまり、この一方に「裏切者」が存在する事によってはじめて、わが子を殺すという行為こういは、アブラハムにて自己完結するからである。「裏切者」とは集団の対人関係の、独立して自己完結しようとするメカニズムが必然的に生み出す、ある形態である。集団は、「神に対するおそれ」というとめどもなく一方的な不安定な心情を、「裏切者」によって、緊張きんちょうしあう安定したものにすることが出来る。「裏切者」というのは絶対的な悪ではない。「裏切る」という行為こういは相対的なものであり、従って集団は永遠にそれを対象化することが出来ない。故にそれは、集団の内部を律するメカニズムを持続的に緊張きんちょうさせつづけることが出来るのである。
 新約によれば、キリストは、かれ死刑しけいにした外部勢力に対してよりも、ユダに対して緊張きんちょうしあっている。つまり、その時、その集団は、外部勢力に対して拮抗きっこうすることではなく、集団として自己完結することを選びつつあったのであり、そのために自ら「裏切者」を用意してみせたのであろう。
 言うまでもなく、集団が自己完結を目指すのは、集団が衰弱すいじゃくしはじめている証拠しょうこである。しかし、集団は常に、いつかは衰弱すいじゃく期を迎えるむか  ものであり、自己完結することを目指すのである。現に今でも「裏切者」と「犠牲ぎせい者」によって自己完結を目指しつつある集団をたびたび目にする事ができる。一つの集団を律する原理は、新約時代からちっとも進歩していないのかもしれないのだ。

(別役実「電信柱のある宇宙」から)
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