a 長文 5.1週 wa
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 普段ふだんは人気のない夜の公園に、明るいちょうちんがいくつもともっている。思い思いのゆかたを着た子供たちがお喋り しゃべ をしながら夜店を回る。地域のお祭りには、どこも同じような懐かしいなつ   光景が広がる。しかし、このようなお祭りのにぎやかさも、翌日になると再びもとの静かな住宅街の中に消えてしまう。孤独こどくな老人、家庭にひきこもる子供たち、夜休むためだけに帰ってくる勤め人の親たちが、もっと日常的に地域に出て仲よく談笑できる社会は来るのだろうか。今の日本では、子供が成長しても同じ地域に住むという定住化傾向けいこうが強まっている。しかし、地域社会の機能はまだ不十分だ。
 その原因は第一に、これまでの私たちの生活基盤きばんが地域や家族という地縁ちえん血縁けつえん共同体ではなく、学校や会社という機能利益共同体にあったためである。明治の開国以来、日本は工業生産の労働力を農村から調達してきた。この百年間、多くの日本人は新しい職場を求めて住み慣れた地域を離れはな 全国の都市に広がっていった。新興住宅地と呼ばれる地域では、昔からそこに住んでいる住民はむしろ少数派で、全国各地から集まった新しい住民が地域の多数派を形成している。ここで必要なのは、意識改革だ。過去の地縁ちえん頼るたよ のではなく、未来の地縁ちえんを自分たちの手で作っていくという意識が求められている。
 地域社会が十分には機能していない第二の原因は、権限と予算の不足である。かつて日本が欧米おうべいの植民地主義に対抗たいこうするために形成した中央集権国家は、現在では非効率が目立つようになっている。昔、日本がいくつものはんに分かれていた時代には、そのはん象徴しょうちょうするような強力なリーダーが登場することがあった。武田信玄しんげん加藤かとう清正は、地域の振興しんこうに大きな業績を残した。
 話を広げて考えると、地球が今のように多様な生命体を宿す惑星わくせいになったのは、さまざまな環境かんきょうにそれぞれの個性で適応する生物がいたからであって、決して最も進化した生物である人間が地球を支配するようになったからではない。
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 確かに、グローバル化は今後も続く。情報も、資源も、人間も、国境を越えこ て行き来できることが世界の進歩につながっている。しかし、グローバル化は、その基盤きばんに安定したローカル化があってこそ人間の幸福に結びつく。人類のこれまでの歴史は、小さな集落から小国家へ、小国家からより大きな統合国家へという流れであった。その大きな統合国家から地球全体をひとつの国とするような流れは当然考えられる。しかし、同時にそのベクトルとは反対の地域や家族に向けての関心が生まれ出したのが現代の特徴とくちょうだ。地域社会は、地球国家の進展とともに進むものである。どんな小さな町や村にも、日常的にお祭りのにぎやかさが戻っもど てくるときが、地球と地域が結びついた新しい時代の始まりになる。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 5.1週 waのつづき
 たとえば、折り紙をわたされて、「この折り紙の3分の2の4分の3を切り取ってくれません?」と頼またの れたとしてみましょう。あなたは何をするでしょう?
 分数の計算?
 やってみていただくと分かりますが、答えは、2分の1になります。2分の1を切り取るのであれば、計算すれば話は簡単、と思われるかもしれませんが、実際この問いをあちこちで人にしてみたところ、計算する人は一〇人に一人くらいしかいませんでした。たいていの人は、直接紙を折って答えを出そうとします。三等分は折りにくいですが、何とか折ります。そしてできた3分の2の部分について、またこれもそこを四等分するような折り方を工夫し4分の3を求めてくれるのです。つまり、小学校で十分練習問題をやっていても、折り紙があれば人は計算しなくてもいい、そうやって外の世界にあるものを、その場の目的に合わせて上手に使うことがむしろ人間の知性の現れなのではないかと考えてみることができるでしょう。人間の知とは何かについての考え方が、頭の中ですばやく計算できることといったものから、経験を生かし、外の世界にある道具(折り紙など)をうまく使って求められている答えを引き出すこと、といった見方に変わりつつあります。
 人間の認知能力にこういう側面があることを強力に主張してきたのは、人を、その人が毎日普通ふつうに生活している場のなかで観察し、そこから人間の能力について考えてきた研究者の人たちで、その多くは文化人類学などのバックグラウンドをもっています。上の3分の2の4分の3の話も、ジーン・レイヴなどを中心としたそういった研究者が台所でした観察がもとになっています。
 その人たちによると、学校という生活場所はそれ自体が一つの文化であって、学校でよい成績を収めるということは、その文化への適応の程度がよくてその文化のなかで十分有能にふるまえることを意味します。だから、学校を卒業した後も、学校でやったように新しいことを次々覚える必要があったり、教えられたとおりのやり方で仕事をきちんとこなすことが求められたり、定期的に昇進しょうしん試験があったりする社会でなら、学校で有能だった人がいきいきと生きられるでしょう。
 ただ、そういう人たちが、学校ではあまり教えられないこと、奨励しょうれいされないこともうまくやる、という保証はありません。むしろそういうことはできない、と考えたほうがいいような証拠しょうこがあげられてきています。
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 学校で奨励しょうれいしないようなこと、暴力だとか、セックスだとか、ドラッグだとか、そんなものに若い人が染まらないほうがいいに決まっている、という範囲はんいでなら、この話はこれでいいのかもしれません。けれど、今学校であまり教えないことのなかに、たとえば与えあた られたわくをはずれるとか、これまでだれも試したことのない問題に取り組むとか、これまでのやり方を大幅おおはば作り替えつく か てみるとか、もうけっこう成果があがると言われている定評のある方法をわざわざ壊しこわ 作り替えよつく か  うとしてみるとか、そういうたぐいの、これからの世の中でいままでよりもっと大切になるだろうと感じられていることが含まふく れていないでしょうか。含まふく れているのだとすると、レイヴたちの言うことは「学校ではそういうたとえば創造性と呼ばれるような能力はあんまり身につかないよ」という警告ともとれるのです。(中略)
 「言われたとおりにすること」でテストにいい点が取れるなら、いい点を取るプログラムを作ることはむずかしくないでしょう。困るのは、人の有能さが、言われたとおりにできるかどうかでは決まらないというところです。人は、3分の2の4分の3を計算用紙の上で計算するのが適切だと判断すればそうするし、折り紙の上で折ってしまうほうがきれいで速いと思えば計算しないですませます。
 こういう、場への適応力が、人間の有能さの本質でしょう。学校は、人の有能さを育てるところですから、子どもの頭の中に「いつでも分数の掛け算か ざんを絶対間違えまちが ずに速くできる」プログラムを作りたいのではなくて、その場に与えあた られた状況じょうきょうを最大限に利用するにはどうしたらいいかが苦労せずに分かる適応力を目指したいはずだと思います。

(三宅なほみ『インターネットの子どもたち』による)
(注)ジーン・レイヴー=認知心理学者
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