a 長文 4.4週 wa
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 文明とは何かを地球システム論的に考えると、「人間けんを作って生きる生き方」となります。人間けんの誕生がなぜ一万年前だったかというのは、気候システムの変動に関わってきます。気候システムが現在のような気候に安定してきたのは一万年前のことです。それに適応してそのころ、我々はその生き方を変えたんですね。
 人間けんを作って生きる生き方というのは、じつは農耕牧畜ぼくちくという生き方です。それ以前、人類は狩猟しゅりょう採集という生き方をしてきた。狩猟しゅりょう採集というのはライオンもサルも、あらゆる動物がしている生き方です。したがってこの段階までは人類と動物の間に何の差異もなかった。これを地球システム論的に分析ぶんせきすると、生物けんの中の物質循環じゅんかんを使った生き方ということになります。生物けんの中に閉じた生き方です。
 それに対して農耕牧畜ぼくちくはというと、たとえば森林を伐採ばっさいして畑に変えると、太陽からの光に対するアルベド(反射能)が変わってしまう。ということは、地球システムにおける太陽エネルギーの流れを変えているわけです。また、雨が降ったとき、大地が森林でおおわれているときと畑とではその侵食しんしょくの割合が異なります。別の言葉でいえば、そこに水が滞留たいりゅうしている時間が違っちが てくる。すなわち、エネルギーの流れだけではなく、地球の物質循環じゅんかんも変わるということです。これを地球システム論的に整理して概念がいねん化すると、人間けんを作って生きるということになる。人類が生物けんから飛び出して、人間けんを作って生き始めたために、地球システムの構成要素が変わったわけです。
 ところで、先ほど一万年前に人間けんができたのは気候が変わったからだと言いました。そういう時期は最近の一〇〇万年くらいをとっても何回かあったでしょう。人類の誕生以来の歴史七〇〇万年ぐらいまで遡っさかのぼ てみれば、一万年前と同じような時期が何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール人が農耕を始めてもよかったことになる。でも、彼らかれ はそうしなかった。農耕牧畜ぼくちくという生き方を選択せんたくし、人間けんを作ったのは、われわれ現生人類
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だけなんです。
 それはなぜなのか。現生人類に固有の、何か生物学的な理由があるのではないかと考えられます。類人猿るいじんえんや他の人類にはなく、我々だけがもっている特徴とくちょうは何だろうと考えると、まず思い当たるのは「おばあさん」の存在です。おばあさんとは、生殖せいしょく期間が過ぎても生き延びているメスのことです。たとえば、類人猿るいじんえんのチンパンジーのメスと比べても、現生人類のメスは生殖せいしょく期間終了しゅうりょう後の寿命じゅみょうが長い。なおこの場合、オスは関係ありません。オスは死ぬまで生殖せいしょく能力があります。したがって、おじいさんは現生人類以外にも存在します。しかし、おばあさんは他の哺乳類ほにゅうるいには存在しないし、ネアンデルタール人の化石からも、現生人類のおばあさんに相当する骨は見つかっていません。おばあさんの存在は、現生人類だけに特徴とくちょう的なことなんです。
 では、おばあさんが存在すると何が起こるのか。すぐに思いつくのは、人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて子供を産んだ経験をもつわけですから、お産の経験をむすめに伝えることができる。するとお産がより安全になり、新生児や妊婦にんぷの死亡率も低くなりますね。
 さらにおばあさんは、むすめが産んだ子供のめんどうもみます。たとえばむすめ生殖せいしょく期間が一五年として、子育てに五年かかるとしたら三人しか産めない。ところがおばあさんがいることで五年が三年に短縮されたら五人産める。ということで、おばあさんの存在が人口増加をもたらしたのではないかと、私は考えています。このことは最近の研究からも確かめられています。
 我々現生人類は一五万年前ぐらいにアフリカで誕生したのですが、五、六万年前ぐらいには、すでに地球上に広く分布するようになっていました。人類のような大型動物が、なぜこんな短期間に世界中に拡散していったのか。これも現生人類の人口増加という問題を考えるとその理由が判ります。

 (松井まつい孝典『松井まつい教授の東大駒場こまば講義録』)
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長文 4.4週 waのつづき
 言語と思考の関係は実は学問の世界でも同様である。言語には縁遠いえんどお と思われる数学でも、思考はイメージと言語の間の振り子ふ こ運動と言ってよい。ニュートンが解けなかった数学問題を私がいとも簡単に解いてしまうのは、数学的言語の量で私がニュートンを圧倒あっとうしているからである。知的活動とは語彙ごい獲得かくとくに他ならない。
 日本人にとって、語彙ごいを身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙ごいの半分以上は漢字だからである。これには小学生のころがもっとも適している。記憶きおく力が最高で、退屈たいくつな暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さのが ず、叩き込またた こ なくてはならない。強制でいっこうに構わない。(中略)
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退すいたいであり、その底には活字文化の衰退すいたいがある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。
 アメリカの大学で教えていたころ、数学の力では日本人学生にはるかに劣るおと むこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かさおどろ  れた。大学生でありながら(−1)×(−1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。相手の論理的飛躍ひやく指摘してきする技術にかけては小憎らしいこにく   ほど熟練しているし、自らの考えを筋道立てて表現するのも上手だ。
 これは学生に限られたことでなく、暗算のうまくできない店員でも、話してみると驚くおどろ ほどしっかりした考えを持っているし、スポーツ選手、スター、政治家などのインタビューを聞いても、実に当を得たことを明快な論旨ろんしで語る。
 これと対照的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概してがい  弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論にな
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って、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢れっせいぶりであった。
 当時、欧米おうべい人が「不可解な日本人」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼等かれらによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀ゆうしゅうな日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等かれらにはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽あうんの呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲えんきょくな非難に甘んじあま  ているわけにはいかないし、このままでは外交交渉こうしょうなどでは大きく国益を損うことにもなる。
 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしくはなは   違うちが からである。数学における論理は真(正当性一〇〇パーセント)か、(正当性〇パーセント)の二つしかない。真白か真黒かの世界である。現実世界には、絶対的な真も絶対的なも存在しない。すべては灰色である。殺人でさえ真黒ではない。死刑しけいがある。殺人は真黒に限りなく近い灰色である。
 そのうえ、数学には公理という万人共通の規約があり、そこからすべての議論は出発する。現実世界には公理はない。すべての人間がそれぞれの公理を用いていると言ってよい。
 現実世界の「論理」とは、普遍ふへん性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りたよ ないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。

 (藤原ふじわら正彦まさひこ『祖国とは国語』)
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