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 何はともあれ、このようにしても、クラシック音楽への道はつけられる時代になった。あらゆるものがカジュアルになっていき、さまざまな機器の圧倒的あっとうてきな便利さと引きかえに、「傾聴けいちょう」したり「注視」する面倒めんどうな手続きがどんどん失われていく時代のなかで、「真面目」で「傾聴けいちょう迫るせま 」クラシック音楽はほんとうに伝統芸能化せずに生きのびられるのか、と心配したのが杞憂きゆうだったかのように、それは今ではおしゃれなファッションにさえなることができる。特定の商品を際立たせることをやめ、全般ぜんぱん的な生活スタイルのイメージを操作しようとしはじめた企業きぎょうの文化戦略にとって、それは軽薄けいはく短小の次に来る「さらに新しいもの」でありうる。
 しかし、こうしたことがすぐにクラシック音楽の啓蒙けいもうになり、普及ふきゅうにつながる、などとは早合点しないほうが良いだろう。なかんずく伝統的な音楽芸術の理念、とりわけ十九世紀の音楽観が要求したような「始まりと終わりがあって、そのあいだの過程は不可逆的であり、部分と部分が相互そうごに有機的に関係しあうとともに、曲全体は細部まで意味づけられた閉じた統一体である」ととらえられるような音楽作品の理念、聴くき 方から言えば「かならず最初から最後までを順序どおりに中断せずに聴きき とおし、刹那せつなの快感だけでなく、全体の構造の脈絡みゃくらくを理解すべき」であるような音楽体験の理念が、そこで受け継がう つ れているかどうかは、まったく疑わしい。たんなる「楽想」と、有機的統一体として仕上げられた「音楽作品」の違いちが は画然としているのだから、音楽作品とは本来切断してはならないもののはずなのに、それを切り刻んで差し出すコマーシャルの十五秒間は、もはや西洋近代のひとつの極限的な文化のかたちというより、おびただしく流通する商業音楽を飽食ほうしょくするなかでこそ光るエスニックのような新鮮しんせんさなのかもしれない。
 世の中にはクラシック音楽は難しいと言う人が今でも結構いる。その人たちが口をそろえて語るのは、一曲が長いので途中とちゅう退屈たいくつしてしまう、まして暗く閉ざされたコンサート会場で長時間、物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということである。このことはとりもなおさず、一様に、クラシック音楽の真髄しんずいとはそ
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の反対、つまり長い一曲を聴きき とおす、それもながら聴きき ではなく、全身耳となって聴きき とおす時に、旋律せんりつやりズムや音響おんきょうといった現象的な快楽にとどまらぬ、それを超えこ た「作品」という包括ほうかつ的でドラマティックな意味連関が体験できることにある、と了解りょうかいされていることを示している。もちろん、細部が全体に劣るおと わけではない。だが、曲全体という世界のなかに位置づけられることで、細部はそれだけで存在するより以上の意味を持つことができる。(中略)
 しかし、コマーシャルの十五秒のクラシック音楽は、そういう体験にはほど遠い、どころか、その入口でさえないのではないか、と私は思う。そこで、鳴っているのはたしかに作品の一部には違いちが ないが、その向こうに作品全体を暗示することのない、むしろ作品という根から切り離さき はな れた、それ自体で味わわれる個的で快楽的な現象である。コマーシャルにぞくぞくと登場し、しかもそれがある感銘かんめい誘っさそ ているとしても、かならずしもそれにつれて人々が容易にクラシック音楽の世界にいざなわれるとは考えないほうが良い。美しくサンプルを並べたカタログは、もはや憧憬(しょうけいの入口ではなく、憧憬(しょうけいの対象そのものになろうとしているのだから。
 とにもかくにも、こうしたことは、音楽、というよりその受けとめ方が、いつの間にか変容しつつあることを示しているのではないだろうか。
 つまり、コマーシャルのクラシック音楽が効果を上げたのは、たんにコマーシャルの世界でありふれていないので新鮮しんせんだったというだけではなく、今日では一曲を有機的統一体として把握はあくする構造的な聴きき 方のできない人、あるいは秘かな異和を抱いいだ ている人がしだいに増えており、十五秒ぽっきりという異端いたん聴きき 方がその人たちの心の間隙かんげきをついた、という一面があったのではないだろうか。

岡田おかだ敦子あつこ『永遠は瞬間しゅんかんのなかに』より)
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