身近な自然はありふれているだけに、失ってからでないとたいせつさに気づかないという矛盾をかかえています。それだけでなく、高度成長の時代には、住民自らが望んで遠ざけたのです。
親しみやすい等身大の自然も、油断すると大敵に変身します。裸足で小川に入ると、ガラスの破片やとがった岩で足を切るし、まれにはおぼれて命をとられることもあります。淀川などすこし大きくなると、不思議にもあきらめが先に立ちます。しかし等身大の小川やため池になると、くやしさがまさり、だれかに怒りをぶつけたくなり、裁判に訴えるケースが増えてきました。
民主主義がみんなのものになり、泣き寝入りしないで行政の責任を問う市民が増えたこと、裁判所が行政責任をきびしく問い、住民が勝訴するばあいがあったことは評価できます。しかし地域住民が参加しないで、後の対策を行政だけに負わせる結果になったことは、いまから考えると大きな矛盾を生みだしていたのです。
淀川など大きな川にはない金網が、小さな川に張られてしまいました。落ちたりけがをすることは確かに少なくなりましたが、反面で身近な自然を生活の場から遠ざけることになってしまいました。子どもの遊び場でなくなると、とうぜん関心がうすれます。自転車や単車が捨てられていても長いあいだそのままになっていますし、雑草も年一回刈り取られるくらいなので景観もよくありません。家庭排水の捨て場になり、汚れてくると埋立てて道路にしたほうがいいということになり、小さな川が街のなかから消えていきました。
思わぬところで矛盾が頭をもたげます。十年ほど前、子供会で遠足に行ったとき、就学前の女の子がなにかにつまずいて倒れました。手が出ず顔をまともに地面にぶつけたのです。本能で手が出るのではなく、戸外で遊びながら身につける運動能力の一つだった
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