a 長文 8.3週 ti
 次の朝早く、海蔵かいぞうさんは、また地主の家へ出かけていきました。門をはいると、昨日きのうより力のない、ひきつるようなしゃっくりの声が聞こえてきました。だいぶ地主の体がよわったことがわかりました。
「あんたは、また来ましたね。親父はまだ生きていますよ。」
と、出てきた息子さんがいいました。
「いえ、わしは、親父さんが生きておいでのうちに、ぜひおあいしたいので。」
と、海蔵かいぞうさんはいいました。
 老人ろうじんはやつれてていました。海蔵かいぞうさんは、まくらもとに両手をついて、
「わしは、あやまりにまいりました。昨日きのう、わしはここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸いど許しゆる てくれるときいて、悪い心になりました。もうじき、あなたが死ぬからいいなどと、恐ろしいおそ   ことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸いどのことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ちねがうというような、おににもひとしい心になりました。そこで、わしはあやまりにまいりました。井戸いどのことは、もうお願い ねが しません。またどこか、ほかの場所をさがすとします。ですから、あなたはどうぞ、死なないでください。」
といいました。
 老人ろうじん黙っだま てきいていました。それから長いあいだ黙っだま 海蔵かいぞうさんの顔を見上げていました。
「お前さんは、感心なおひとじゃ。」
と、老人ろうじんはやっと口を切っていいました。
「お前さんは、心のええおひとじゃ、わしは長い生涯しょうがいじぶんのよくばかりで、ひとのことなどちっとも思わずに生きてきたが、今はじめてお前さんのりっぱな心にうごかされた。お前さんのような人は、いまどき珍しいめずら  それじゃ、あそこへ井戸いどらしてあげよう。どんな井戸いどでもりなさい。もしって水が出なかったら、どこにでもお前さんの好きす なところにらしてあげよう。あのへん
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は、みなわしの土地だから。うん、そうして、井戸いど費用ひようがたりなかったら、いくらでもわしが出してあげよう。わしは明日にも死ぬかもしれんから、このことを遺言ゆいごんしておいてあげよう。」
 海蔵かいぞうさんは、思いがけない言葉をきいて、返事のしようもありませんでした。だが、死ぬまえに、この一人の欲ばりよく  老人ろうじんが、よい心になったのは、海蔵かいぞうさんにもうれしいことでありました。

(新美南吉なんきちちょ 「牛をつないだ椿つばきの木」より)
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