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 映画「地球交響曲ちきゅうこうきょうきょく」のシナリオハンティングのため、フィンランド北部ラップランドの森を歩いた。ラップランドはすでに北極圏ほっきょくけんに入っている地域で、冬は雪と氷と暗闇くらやみの世界になる。その分、夏は正反対の世界となり、ラップランドの森は、この夏のわずか数か月の間に、あらゆる草木が一気に芽吹きめぶ 、花開き、萌えるも  ような緑に包まれる。ラップランドの夏の森は、まさにすべての生命によって奏でられる地球交響曲ちきゅうこうきょうきょくのコンサート会場といった雰囲気ふんいきであった。しかし、ラップランドの森は、実は、エアコンの効いた都会のコンサートホールではなく、真の野性が保たれている大自然である。撮影さつえいを目的として大自然の中に踏み入るふ い 時、私はいつも二つの矛盾むじゅんした世界の上に立たされることになる。私は大自然の中でシンフォニーをともに奏でる演奏者のひとりとなるのか、それともそのシンフォニーに耳を傾けるかたむ  観客のひとりなのか。
 ラップランドの夏の森に一歩足を踏み入れるふ い  と、まず最初に出迎えでむか てくれるのは、美しい若葉の緑でもなく、色鮮やかあざ  な草花でもなく、実はおびただしい数のやブヨの大群なのだ。しかもその数としつこさは都会生活に慣れた私たちの想像を絶するものがある。写真で見た風景の美しさにひかれてこの森にやって来る都会からの旅人たちは、まずこの洗礼を受けることになる。
 だから森に入る旅人は長袖ながそで、長ズボン、そしてよけ帽子ぼうしをかぶるのが鉄則となる。ところが、私の立場はそうはいかない。まず第一に、よけ帽子ぼうしをかぶっていたのでは撮影さつえいができない。そして何よりも、このようないわばバリヤーを自分のからだの周囲に築いてしまうことは、森と対話する最も重要な回路を自ら閉じてしまうことになるからだ。
 森の本当の美しさは、嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかく触覚しょっかくなど五感のすべてが解放されてこそ初めて見えてくる。五感のすべてを解放し、全身で森と対話した時、初めて森は私を受け入れてくれる。
 多様な木々、草花、虫たち、動物たち、風、匂いにお 、光などすべてが深く関わり合って一つの大きな生命体として生きている森。森のすべての生命がそれぞれの役割をにないながら、ともに一つの生
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命のシンフォニーを奏でている。そこには安全に隔離かくりされた観客席はない。もし森が奏でるシンフォニーを聴きき たいなら、どうしてもその森の一員として、隅っこすみ  にでも加えてもらわなければならない。
 ラップランドの森の夏は短い。たちはこの短い夏の間に、必死で生きて子孫を残そうとしている。夏の森に侵入しんにゅうしてきた私の肉体から血を吸いとろうとするのは森の自然の摂理せつりそのものなのだ。私が感じるかゆさもまた森が奏でるシンフォニーの楽音の一つなのかもしれない。そう思うと、刺ささ れた時のかゆさは変わらないにしても、そのことに心乱されることからは少し解放されるような気がした。風や匂いにお や音に感覚を研ぎすます余裕よゆうも生まれた。

龍村仁たつむらじん著「地球のささやき」による。)
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