島崎藤村の事を考えると、私の頭に先ず浮かんで来るのは、「夜明け前」の出版祝賀会の席上で、氏が諸家の祝賀の言葉に対して答えた挨拶を述べた態度である。
人々のテーブルスピーチが終わると、藤村は感慨に耽り込んだような、そのために少しぼんやりしたような顔附で静かに立ち上がり、暫くうつむき加減に黙って佇んでいたが、やがて顔をもたげ、太い眉をきりりと上げて、そしてゆっくりした口調でこういったのである。
「わたしは皆さんがもっとほんとうの事をいって下さると思っていましたが、どなたもほんとうの事はいって下さらない……」
そのまま又眼を伏せて暫く黙ってしまった。人々は粛然と静まり返った。
実際諸家の言葉は月並でない事はなかったが、由来こういう出版記念会などにいわれる言葉は、普通作者に対する祝賀の言葉かねぎらいの言葉かであるのが例なので、そういうものとして無神経に聴き流してしまえば、別段とがめ立てしなければならないものでもなかったように思われる。併しそれをほんとうに聴き、その中から自分の努力に対する忌憚なき批評をほんとうに探ろうという気になれば、諸家の言葉が余りに形式的である、月並なお世辞であったという事が、藤村の心を寂しくしたとしても、これまた無理ではないかも知れないという気がする。
それは藤村流の静かないい方ではあったが、何処かにぴしりと人を打つような辛いものを含んでいた。月並なお世辞に対する苦笑に充ちた抗議を持っていた。それだから突然叱られたといった感じが黙り込んだ人々の顔に現れたわけである。実際叱られて見れば、もっともの話である。叱られなかったら叱られなくても好いようなことだけれども、叱られて見るとその理由がない事はないので、急に人々は襟を掻き合わせて坐り直さなければならなくなったと云った感じであった。
藤村は暫く黙った後で、再び顔をもたげ、太い眉を再びきりりと
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