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 生きることは学ぶことであり、学ぶことには喜びがある。生きることは、また何かを創造していくことであり、その創造には、学びの段階では味わえない、大きな喜びがある。このことはどんな人の人生にもあてはまるが、特に学問の世界では銘記めいきすべき事柄ことがらであろう。
 言葉をかえて表現しよう。学問の世界においては学ぶこと、創造することの喜びはとりもなおさず、考えることの喜びだと思う。どんな分野の学問でも何か新しいものを発見し、創っていくことに本来の意義がある。「発見」と「創造」にこそ、意味がある。単なる知識の受け売りは学問とはいえないし評価に値することもない。さまざまな知識は考えるための資料であり、読書は考えるためのきっかけを提供してくれるものである。
 そう思えば、知識を集めることも案外楽しいことだし、読書も苦にならない。耳で聴きき 、体で感じ、目で読んで考える。考えたあとでは聴いき たこと読んだことは忘れ去ってもよいわけだ。覚えていなければならない、忘れてはならないと思うと、学問する前に疲れつか てしまい、学ぶこと自体が億劫おっくうになってしまう。本来、学問はそんなに難しいことではなく、考えることの好きな人間ならだれでも学問することができるし、その喜びを味わうことができるものである。
 それにしても、そもそも創造を生み出す力はどこからやってくるのか。創造性の背景にある重要な条件とは何なのか。
 まず、こんな言葉がある。フランスの有名な数学者ポアンカレがいった、「創造とは、マッシュルームのようなものだ」という言葉である。
 マッシュルームは、キノコの一種である。キノコというと、日本人の私はすぐに松茸まつたけを連想してしまうのだが、すなわち、その松茸まつたけのようなものが創造だ、とポアンカレはいうのだ。
 松茸まつたけは、周知のように地表下にきん根と呼ばれる根をもっている。この根は、きわめていい条件が与えあた られると次第に円形に広がりながら発達していく。ところが、この好条件がいつまでも続くと、根だけが発達してキノコをつくらずに、ついには老化して死んでしまうのである。植物に詳しいくわ  知人の話によると、実に五百年にわたって根だけが発達し、枯死こしした松茸まつたけがあるらしい。
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 では、どうするか。発達してきた根に、ある時点で、根の成長を妨害ぼうがいする条件が与えあた られなければならないのである。その妨害ぼうがい条件は、例えば季節の変化による温度の上昇じょうしょうあるいは下降といった外界の条件であったり、また、松やにとか、酸性の物質とかの物質的条件であったりするようだ。このような条件が与えあた られると、その妨害ぼうがいにもめげずに生きるために、根は胞子ほうしという形で種子をつくって発達を続けようとする。そうして、やがて松茸まつたけとなるのである。(中略)
 仏教の「因縁いんねん」という言葉を創造性にあてはめて考えてみると、「因」とは、地表下で発達をとげた松茸まつたけの根のように、人が親から受け継いう つ だり、周囲の人間から学んだり、あるいは学校で勉強したりしながら自分の中に蓄積ちくせきしていったものではないかと私は思う。だが、この「因」だけがあれば、創造あるいは飛躍ひやくができるわけではない。「えん」となるものが必要なのである。ある時点で、松茸まつたけ与えあた られる妨害ぼうがい条件に相当するものが、人がものを創造する上でも必要なのである。蓄積ちくせきを表出させる条件が要るのである。それが「えん」である。ただし「えん」にも二種類ある。「順縁じゅんえん」と「逆縁ぎゃくえん」である。実生活では、しばしば「逆縁ぎゃくえん」が表出エネルギーとなる。「逆縁ぎゃくえん」という言葉を一般いっぱん的な言葉に置き換えるお か  と、「逆境」という言葉にあてはまるのではないだろうか。
 世の中で成功した人は、大抵たいてい、逆境を自分の人生にプラスに取り込んと こ でいく能力をそなえているように私には見える。創造にも、この逆境が深く関係している、といわなければならない。

広中平祐ひろなかへいすけ「生きること学ぶこと」による。)
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