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 イロリの社交は、家族結合の社交であった。一家団欒だんらんということばは言うまでもなく家族がおなじ火をかこんでいることを指した。ひとつの火を通じて心がかよいあう。そういう不思議な力を火はもっていた。家族だけではない。客人もまた、おなじ火をかこむことで、他人ではなくなる。火は人間を近づけるのである。若者たちが夏の山や海で火を燃やしてひらくファイヤー・ストームなども、まさしく火による人間結合の現代的なあらわれのひとつであろう。
 イロリの社交には、秩序ちつじょがあった。よく知られているように、イロリの四辺にはだれがどうすわるかについての約束事がある。土間に面していちばんおくの辺は横座である。そこには戸主以外の人間がすわってはいけない。横座からみて左がわの辺にすわるのは主婦によって代表される家の女たちである。この座席はカカ座などと呼ばれる。そして客人の席、すなわち客座は横座からみて右、横座の正面は使用人や場合によってはよめの座る下座――そんなふうに席の割りふりがきまっていたのである。こんにち、比喩ひゆ的に、たとえば「主婦の座」というようなことばが使われるのは、このようなイロリの座の割りつけから延長されたものだと考えてよいだろう。
 それぞれの座がきめられ、冬の夜などイロリをかこんで世間話がつづく。火を共有しているという事実が、そして、ときにはバチバチと音をたてて燃えるほのおが、いわばその世間話の背景音のようなものになる。火は、家庭の健在をしめす象徴しょうちょうなのでもあった。
 これとまったくおなじことが、西洋でも考えられる。かつてマーガレット・ミードはフランス文化を論じて、フランス文化の基本になっているモチーフはFoyerであるといった。このフォアイエというのは、一家団欒だんらんを意味し、同時に火床(ひどこを意味することばだ。同一の火床(ひどこないしは暖炉だんろを共有する家族の結合がかたいのである。
 フランスだけではない。ヨーロッパやアメリカの住宅で中流以上といういささかゆとりのある家にはたいてい暖炉だんろがある。そして、こんにちでは、ちゃんと中央管理暖房だんぼうがゆきとどいているにもかかわらず、ときどき暖炉だんろたきぎをくべて火の共有の事実を演出するのである。じっさい、イロリと暖炉だんろはその機能においてきわめて類似している。
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もちろん、火をまんなかにしてかこむイロリと火にむかって半月型にならぶ暖炉だんろとでは、社会構造は少し違うちが かもしれない。だが、おなじ火のぬくもりと光を受けることのできる場を家庭の象徴しょうちょうとすることは、たぶん東西共通なのである。
 火が人間を接近させ、親密さを強める効果をもっていることをわれわれは直観的に知っている。ラジオが大衆化したとき、アメリカの大統領F・ルーズベルトは、定期的な「炉辺ろへん談話」番組で国民に親しく話しかけた。番組の題名にある「炉辺ろへん」ということばだけで大統領と国民はぐんとその距離きょりを縮めることができたのだ。(中略)
 火の共有による親密な人間関係は、調理の火を考えてみればよくわかる。「同じかまの飯を食った」関係、というのは、遠慮えんりょのない親しい関係ということだ。おなじ火で調理されたものを飲食するというのは、暖房だんぼうや照明の火の共有よりもさらに深い共通感覚を人間たちに与えるあた  
 カマドをわける、あるいは別火にするというのは、人間のまじわりの単位をわける、ということである。調理の火の共有、それは人間をつなぐ基本的に重要な文化項目こうもくであった。
 この点でも、日本文化はいろんな工夫を凝らしこ  、それに美的洗練をあたえつづけてきたように思える。たとえばさまざまななべ料理。それは、人間が共通の火で調理されたものをわかちあうことで親密さをつくりあげてゆくためのすばらしい知恵ちえであった。
 茶の湯もまた、ある意味で火の共有を象徴しょうちょうする社交の形態であった。小さな風炉ふろとカマ、そこからまさしく茶の湯がうまれる。茶会はおなじカマからつくられた、おなじ味覚を共有する深い人間関係を形成してゆくのである。暖房だんぼう、照明、調理、それらは、いずれも人間生活にとってきわめて実用的な火の機能である。だが、人間はそういう実用性を超えこ て、火を人間関係調整の手段としても展開させてきたのであつた。火の管理はたんに物理現象としての火を管理するというだけでなく、その火をめぐる人間集団の管理をもふくむものであった。

 (加藤かとう秀俊ひでとし「暮らしの思想」より)
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