a 長文 2.4週 re
 その翌日であった。母親は青葉の映りの濃くこ 射す縁側えんがわへ新しい茣蓙ござ敷きし 俎板まないただの包丁だの水おけだの蠅帳はいちょうだの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
 母親は、自分と俎板まないたてた向こう側に子供を坐らすわ せた。子供の前にはぜんの上に一つの皿を置いた。
 母親は、うで捲りめく して、薔薇ばらいろのてのひらを差し出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて擦りこす ながら云っい た。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵えるこしら  人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
 母親は、はちの中で炊きた さました飯にを混ぜた。母親も子供もこんこん噎せむ た。それから母親はそのはち傍らかたわ に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴みつか 出して、両手で小さく長方形に握っにぎ た。
 蠅帳はいちょうの中には、すでにすしの具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取り出してそれからちょっと押さえお  て、長方形に握っにぎ た飯の上へ載せの た。子供の前のぜんの上の皿へ置いた。玉子焼すしだった。
「ほら、すしだよ。おすしだよ。手々で、じかに掴んつか べても好いのだよ」
 子供は、その通りにした。はだかのはだをするする撫でな られるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつべてしまうと体を母に拠りよ つけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめたこう湯のように子供の身うちに湧いわ た。
 子供はおいしいと云うい のが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握りにぎ 蠅帳はいちょうから具の一片ひときれを取りだして押しつけお   、子供の皿に置
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いた。
 子供は今度は握っにぎ た飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いのぞ た。すると母親は怖くこわ ない程度の威丈高いたけだかになって、
「何でもありません。白い玉子焼きだと思ってべればいいんです」
といった。
 かくて、子供は、烏賊いかというものを生まれて初めてべた。象牙ぞうげのように滑らかなめ  さがあって、生もちより、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊いかすしべていたその冒険ぼうけんのさなか、詰めつ ていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現さなかった。
 母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおるす    切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かさおびや  れるにおいに掠めかす られたが、鼻を詰まらつ  せて、思い切って口の中へ入れた。
 白く透き通るす とお 切片は、咀嚼そしゃくのために、上品なうま味に衝きつ くずされ、程よい滋味じみの圧感に混じって、子供の細い咽喉いんこうへ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いちが ない。自分は、魚がべられたのだ――」
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺しか ころ たような征服せいふく新鮮しんせんを感じ、あたりを広く見廻しみまわ たい歓びよろこ を感じた。むずむずする両方の脇腹わきばらを、同じような歓びよろこ で、じっとしていられない手の指で掴みつか 掻いか た。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
 無暗に疳高かんだかに子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒めしつぶを、ひとつひとつ払いはら 落としたりしてから、わざと落ちついて蠅帳はいちょうのなかを子供に見せぬよう覗いのぞ 云っい た。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」子供は焦立いらだって絶叫ぜっきょうする。
「すし! すし!」
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長文 2.4週 reのつづき
 母親は、嬉しいうれ  のをぐっとこらえる少しとぼけたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯しょうがい忘れ得ない美しい顔をして、
「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」
 最初のときのように、薔薇ばらいろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてからすし握りにぎ 出した。同じような白い身の魚のすし握りにぎ 出された。
 母親はまず最初の試みに注意深く色と生臭なまぐさの無い魚肉を選んだらしい。それはたいと比良目であった。
 子供は続けてべた。母親が握っにぎ て皿の上に置くのと、子供が掴みつか 取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの痺れしび た世界に牽きひ 入れた。五つ六つのすし握らにぎ れて、掴みつか 取られて、べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の握るにぎ すしは、いちいち大きさが違っちが ていて、形も不細工だった。すしは、皿の上に、ころりと倒れたお て、載せの た具を傍らかたわ へ落とすものもあった。子供は、そういうものへ却ってかえ  愛感を覚え、自分で形を調えてべると余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃ひごろ、内しょで呼んでいるも一人の幻想げんそうのなかの母といま目の前にすし握っにぎ ている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致いっちしかけ一重の姿に紛れまぎ ている気がした。

岡本おかもとかの子「すし」)
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