1大相撲をはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの緊迫感がぜんぜんないということだ。2それどころか、そもそも立ち会いの瞬間も注意をこらしていないと、すぐ見逃してしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。3テレビの相撲中継では、懸賞の提供者紹介や客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは遮断されていて、制限時間いっぱいになってから観客の声援を入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、一抹の緊張感がただようわけだ。4ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一枡四人食べ物を拡げ、酒やビールを呑みながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。5あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台とそれを鑑賞する観客とを空間的に分離すること、そういう制度になれてしまうと、大相撲とか歌舞伎の楽しみかたに、はじめはとまどう。6けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑賞する西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷の庭や居間で、あるいは街の芝居小屋や路上で、催しとして行われていたわけで、必ずしも純粋な鑑賞の対象であったわけではない。7渡辺裕によれば、たとえば十八世紀の演奏会は極端な言い方をすると「音楽のあるパーティー」といった趣の社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を聴く場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
8「おしゃべりだけではない。聴衆は演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコ
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