a 長文 2.3週 re
 大相撲おおずもうをはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの緊迫きんぱく感がぜんぜんないということだ。それどころか、そもそも立ち会いの瞬間しゅんかんも注意をこらしていないと、すぐ見逃しみのが てしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。テレビの相撲すもう中継ちゅうけいでは、懸賞けんしょうの提供者紹介しょうかいや客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは遮断しゃだんされていて、制限時間いっぱいになってから観客の声援せいえんを入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、一抹いちまつ緊張きんちょう感がただようわけだ。ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一ます四人食べ物を拡げ、酒やビールを呑みの ながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
 演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台ぶたいとそれを鑑賞かんしょうする観客とを空間的に分離ぶんりすること、そういう制度になれてしまうと、大相撲おおずもうとか歌舞伎かぶきの楽しみかたに、はじめはとまどう。けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑賞かんしょうする西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷きゅうていの庭や居間で、あるいは街の芝居しばい小屋や路上で、催しもよお として行われていたわけで、必ずしも純粋じゅんすい鑑賞かんしょうの対象であったわけではない。渡辺わたなべひろしによれば、たとえば十八世紀の演奏会は極端きょくたんな言い方をすると「音楽のあるパーティー」といったおもむきの社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を聴くき 場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
 「おしゃべりだけではない。聴衆ちょうしゅうは演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコ
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ンサートの回想の中で、「無数のパイプから立ち上った煙草たばこけむりのもやの中で指揮をすることは容易ではなかったろう」と述べている。また一七八四年のエアフルトでの演奏会の記録によれば、ビールや煙草たばこが認められていただけでなく「とりわけ音楽が好きでない人々は気晴らしにトランプをやっており、ご婦人方は徐々にじょじょ そちらに加わっていった」。フランクフルトのコンサート協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れてくることは禁止」と書かれていたというのも興味深い。そんなことをわざわざ断らなければならないというのは、そういうことを何とも思っていないやからがいたということのあらわれである。(渡辺わたなべ格「聴衆ちょうしゅうの誕生」)」
 じっと息をこらして、作品の世界にひたりきるという「集中的聴取ちょうしゅ」の思想はまだなかったわけである。いま、たまたま思想ということばを使ったが、居ずまいを正して作品に集中するというような聴取ちょうしゅの態度はかならずしも自明のものではなく、「芸術の享受きょうじゅ」あるいは「作品の鑑賞かんしょう」という一つの思想をバックボーンとして、制度化されてきた態度にほかならないということである。そしてそのために、演ずる者、演奏する者と見る者、聴くき 者とを空間的に分割する装置が、劇場やコンサート・ホールとして建造されたのだ。
 「隔たりへだ  」ということが、ここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見る者、聴くき 者、つまりは、見られるものと見るものとを空間的に分離ぶんりする装置のなかで、二つの距離きょりが発生する。主体と対象との隔たりへだ  と、主体とただの主体との隔たりへだ  である。
 見る主体と見られる対象との隔たりへだ  は、芸術の場合、「鑑賞かんしょう」という概念がいねんと連動している。愉したの みの「享受きょうじゅ」というよりもむしろ、距離きょり隔てへだ て「鑑賞かんしょう」すべき客体として「芸術作品」が主体から空間的に分離ぶんりされていくそのプロセスを支配していたのは、近代芸術における「美の自律性」という考えかた、「美」はそれ自体としての独立の価値をもつという考えかただ。「芸術作品」は、それが創られた時代や環境かんきょう超えこ た独自の「美的」世界をもつ。それが置かれた状況じょうきょう、あるいはそれを前にした鑑賞かんしょう者によって価値
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長文 2.3週 reのつづき
を変えるなどということは、本来、「芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの作品は味覚とか嗅覚きゅうかく触覚しょっかくといった、そのつどの状況じょうきょうによって感覚内容が変化するような「低級」な感覚に支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、視覚や聴覚ちょうかくのような、距離きょりをおいた感覚、対象と接触せっしょくしたり混じりあったりすることのない「普遍ふへん的な感覚」によって支えられるのでなければならない、とされるのである。
 さて「隔たりへだ  」のもう一つの意味は、他者との隔たりへだ  ということである。たとえばコンサートでも演劇でも、開演にあたってまず客席の照明が落とされる。これはまずは、見るものと見られるもの、演奏するものと聴くき ものとを空間的に分離ぶんりするためもあるが(客席を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見る人ではなく見られるばかりの人になり観客は見られることなく見るだけの人になる)、同時に、まわりにいる他の人間たちから個人を分離ぶんりし、隔離かくりするためのものでもある。観客が、他人にじゃまされることなく、個人として作品鑑賞かんしょうに集中できるよう、作品世界に投入できるように、照明が落とされるのだ。だから建物は、純粋じゅんすいに「作品」の世界だけに集中できるよう、周囲の騒音そうおん遮断しゃだんする構造になっているし、観客は観客で、持ち物、パンフレット、咳払いせきばら などで余計な物音を立てることのないよう注意しなければならないのである。
 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、例えば演奏中に客が絶叫ぜっきょうするようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に巻き込みま こ 、ストーリー展開のなかに偶然ぐうぜん的な要素をどんどん導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路上で予告なしに劇が開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような近代の「芸術鑑賞かんしょう」という制度そのものに攻撃こうげきの照準を合わせていたのであった。

 (鷲田わしだ清一)
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