a 長文 2.2週 re
 私の英語力はほとんど中学三年間の教育に依拠いきょしている。高校時代に覚えた難しい単語は記憶きおく彼方かなた霧散むさんしてしまったし、大学時代の英語教育はなきに等しかった。大学にはLL教室があったけれども、テレビモニターを相手におうむ返しに発声するという行為こういの単純さと滑稽こっけいさには耐え難いた がた ものを感じた。現代小説を読むリーディングの授業は他力本願で何も身につかなかった。一番ひどかったのがアメリカ人講師による会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その主な理由は、講師の「笑顔」にあった。金髪きんぱつかれは、授業の間中、表情豊かに微笑びしょうしつつ頻繁ひんぱんに学生たちに語りかけていた。たいてい私はうつむいて、机の下でつめをいじったりしながらそれを聞いていた。それがいけなかった。
 視線を落として指先のあたりを見つめるのは「意識を集中して何かを聞く」ときの私の定型ポーズにすぎないのに、かれにかかると、それは授業に対する「不満の表明」とみなされる。しょっちゅう机のわきに来ては、「何か問題がありますか?」「具合でも悪いのですか?」と尋ねたず られてうっとうしいことこの上ない。私は無表情に首を振るふ 。「別に、何もありません」心の中では思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに笑っちゃいられないわよ。馬鹿ばかじゃないんだから……。そうこうする間に私の英語力は息絶えた。
 それから十年以上が経った昨夏、女子大生の語学研修に同行してアイオワ州のある私大へ行った。私自身は英語のレッスンに参加したわけではなかったけれども、ひと月近く滞在たいざいするうちに、あちらの教授じんとかなり緊密きんみつな付き合いをすることになった。なにしろ、朝昼晩の食事が一緒いっしょである。毎日、レッスンの前後にあちこちへ案内され、週末には自宅へ招待される。それはもう逃げ場に ばもなく英語攻めぜ ということでもあり、苦しさ半分有り難さ半分といった日々。苦しさの方は、言葉が頭の中に渦巻くうずま ばかりで口から発射されないことだ。だいたいすれ違う  ちが たびに見知らぬ人と挨拶あいさつを交わすという習慣からして私にはつらい。にっこり笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと疲れつか てしまう。
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 有り難さの方は彼らかれ のあふれるホスピタリティに触れふ たことだ。アルバイトの学生から役付きの偉いえら 教授までが、私の日常の細やかな部分に気を遣っつか てくれる。立場が逆だったら、こうまでは出来ない。「笑顔」である。彼らかれ 揃いそろ 揃っそろ てにこやかな人々だった。いつ会ってもキゲン良さそうに微笑んほほえ でいる。ほとんど朝から晩まで笑っているのかと思うほどだ。もしかすると表情筋が笑顔に固定されているのかもしれないとさえ思った。陽気な奴らやつ なんだ、きっと。笑顔の民族なんだな。ある時私は見てしまったのだ。今までにこやかに笑顔を振りまいふ   ていた教授が、一人になったとたん、考え深げな、どことなく徒労感の漂うただよ 表情に戻るもど のを。かれはふと、まだ傍らかたわ に私がいるのに気づいたけれども、再び同じテンションの笑顔に持っていくまでには驚くおどろ ほど時間がかかった。その時、彼らかれ の笑顔が意識的な努力の賜物たまものであることを私は悟っさと た。
 彼らかれ は実に意識的な人々だった。明快な価値観を持ち、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん選択せんたくし、行動に移す。笑うべきだと思うから笑うということだ。たとえ一番気が抜けるぬ  はずの家庭でさえ、意志の力で支えていかなければあっという間に瓦解がかいするという厳しい認識が、日常の些細ささい行為こういの背後にも痛いほどに感じられる。現実は厳しく、それを乗り越えるの こ  ためには強靭きょうじんな意志力と行動が必要なのだ。
 その厳しい現実の一つがきっと理解不可能な他者の存在なのだろう。ひと月の間に、さまざまな場所でさまざまなアメリカ人とすれ違う  ちが うちに、私は一つの妄想もうそう抱くいだ ようになった。「向こうから知らない人が歩いてくる。言葉は通じそうにない。何か誤解されたらナイフを突き付けつ つ られるかもしれない。ピストルだったら即死そくしだ」そのような心理的風土のもとでなら、過剰かじょうだろうがなんだろうが誤解の余地もないほどに微笑んほほえ で敵意のないことを相手に示そうとするだろう。相手もそうするだろう。摩擦まさつを起こさず、安心してくらせる市民社会の、それがルールになるだろう。
 ここにいたって、その昔、苦手だった英会話のクラスで何が起こ
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長文 2.2週 reのつづき
っていたのか、私はようやく理解した気がするのだ。こういう国から来た人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの努力を怠っおこた た私には苛立っいらだ たはずだ。今思えば、かれもまた強靭きょうじんな意志力によって精一杯せいいっぱい私たちに微笑みほほえ かけていた。こちらが無表情だった分、かれ微笑みほほえ 過剰かじょうになるのかもしれなかった。英語表現の基礎きそ語彙ごいでも構文でもなく、伝えようとする意志、微笑むほほえ その姿勢だと教えていたのかもしれなかった。
 アメリカ人は、あんなに毎日一生懸命いっしょうけんめいに生きていて疲れつか ないのだろうか。
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