なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象も手伝ったにちがいないが、「安寿と厨子王」の話は私には暴力にも似た一撃であった。グレアム・グリーンが『失われた幼年時代』で言っているように、「本というものがわれわれの人生に深い感化を及ぼすのは、おそらく幼年時代だけである。それ以後は、感心したり、面白がったり、これまでの見方を修正したりすることはあっても、多くはすでに考えていたことを本で確認するにとどまる。恋をしていると、自分の顔かたちが実物以上によく見えるような気がするのと同じである。」
私が鴎外の『山椒大夫』を読んだのは、大人になってからであった。そして今度また久しぶりに再読したが、結末のところを見て、そうかと思った。あの母親は、可愛いさかりの娘と息子をさらわれた哀しみに夜も昼も泣いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてしまった、というくだりがあるような気がしていたからである。むろん、作者はそんなことは書いていなかった。書く必要もなかったにちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読んだのか、でなければ自分でそう考えたのであろう。いずれにしても、私の心には絵本のイメージのほうが生きていたのである。
私が鴎外の結末でいい加減に読み過ごしていた箇所は、もう一つあった。作者はこう書いている。
「女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目が開いた。
『厨子王』という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。」
それは厨子王が姉の形見に肌身離さず持っていた守り本尊の力であるという。そこが、ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほうはどうであったかは、もう覚えていない。子供心にも、この最後の奇蹟はいくぶん付けたりのように思われたかもしれない。今の私には、親の一念、子の一念とはそれほどのものかもしれないと思う気持ちもある一方で、不幸な女の盲目という書き方に、何か古い物語
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