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 われわれ自身は必ずしも意識していないかも知れないが、例えば「スミマセン」という表現は不思議だと感じられることがある。この表現は英語で言えば「Thank you」と「I am sorry」といういずれの表現の使われる場合にも用いられるが、一方は「お礼」、他方は「お詫び わ 」の表現であり、そのように一見相反するとも思えるものが同じことばで表されるのは不可解だというわけである。しかし、われわれ自身がこれらの表現を使う時の気持を少し意識的に内省してみればすぐ分かる通り、相手から何か好意あることをしてもらうことは有難い(Thank you)と同時に、負担をかけたという意味で申し訳ない(I am sorry)ことであり、こちらからもそれに応える何かをお返しするまでは事はすまないし、自分の気持ちもすまない――ということで、日本語にはそれなりの論理が背後にあるわけである。
 あるいは、このような例はどうであろうか。英語では、「I am cold」「You are cold」「He is cold」は、どれも同じように普通ふつうの自然な表現である。ところが日本語だと、「ボクハ寒イ」はよいが、「君ハ寒イ」、「かれハ寒イ」というのは不自然に聞こえる。一見、日本語の方は筋が通っていないように思えるが、それなりの論理は背後にある。つまり、寒いと感じるのは本人の感覚であり、それを本当の意味で体験できるのはその本人だけである。したがって、自分の寒いのは自分で分かるから良いが、同じことは他人についてはできないはず、というわけである。「君(かれ)ハ寒イ」などという表現を聞くと、何となく差し出がましいことを言っているという印象を受けるのもそのためである。(本人が寒いということは、本人以外にはその内的な感覚が外からも知覚できるような形で現れて初めて分かることである。「君(かれ)ハ寒ガッテイル」ならば不自然でなくなるのは、そのためである。)
 この種の例は言語のいろいろな面で、またいろいろな抽象ちゅうしょう度で、見出し議論することが可能である。そこで見出される特徴とくちょうも、この言語特有のものから、どの言語にも普遍ふへん的なものに至るまで、さまざまな段階のものがあろう。そして、また、それぞれの特徴とくちょうの持っている文化的な意味合いもさまざまであろう。それは、言語を使う人間が一方では自分なりの創造をすることのできる文化的存在であり、同時に、他方では生物学的存在として生理的・
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心理的に(例えば、発声・調音器官の構造の類似、記憶きおく力の限界など)共通の制約を有しているからである。
 しかし、いずれにせよ、一つの言語を習得して身につけるということは、その言語けんの文化の価値体系を身につけ、何をどのように捉えるとら  かに関して一つの枠組みわくぐ 与えあた られるということである。(その意味で、一つの言語を習得するということは一つの「イデオロギー」を身につけることなのである。)そこで身につけられる価値体系やものの捉えとら 方の枠組みわくぐ は、決してそこから抜け出せぬ だ ないといった性格のものではない。しかし、われわれがとりわけ日常的なレベルで、それらを「自然」なものとして受け入れている限りにおいて、自らの身につけている言語によって、ある一つの方向づけをされているのではないか。しかも、われわれ自身はそれに必ずしも気づいていないのではないか。もしそうだとすると、この点における言語の働きは、人間という存在にとって「無意識」の働きにもある程度類比できるのではないか。いや、むしろ、「無意識」の方がいろいろな意味でその働きを言語に負っているのではないか。こういった反省にまで進んでいくことになるのである。

 (池上嘉彦よしひこ「記号論への招待」)
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