a 長文 1.2週 re
 農業は、きわめて恣意しい的な営みである。
 土を耕す仕事は自然と調和したエコロジカルな行為こうい一般いっぱんには思われているようだが決してそうではない。恣意しい的、といって曖昧あいまいなら、人間が自然を自分の都合のよい方向にねじ曲げる行為こうい、といったらいい過ぎか。
 だいたい、野菜、という概念がいねんからして人工的なものである。
 人は野草や山菜を採集する労苦と非能率を恨んうら で、採ってきた植物を住むところの近くに置いて管理しようと試みた。種を取って播きま 、みずからの意志によって自然を手なずけようとさえした。
 人間の管理下に置かれたもののうち、栽培さいばいされることに甘んじあま  た植物もあったし、断固としてそれを拒否きょひし、野生の状態でなければ生育しないことを死をもって示した種もあったろう。
 食用になる野草山菜のうち、人の管理下での植が可能なものが「ベジタブル」と呼ばれる。生長・増殖ぞうしょくすることが可能、という意味である。
 そればかりではない。品種の「改良」という名のもとに、人間は植物の姿かたちさえも自分たちの望む通りに変えてきた。根が食べたいと思えば、根を太くする。くきが固いと思えば、柔らかくやわ   する。
 たとえばレタスとかキャベツとかいった、丸く結球する野菜を考えてみよう。
 これらの植物は、芽が出てからしばらくのようすを見ていればわかるが、最初はごくふつうの、それぞれの葉が外側に反りながら上に伸びの ていくかたちの青菜である。それが、ある時点から、しだいに外側の葉が内側の葉を包むように巻きはじめる。
 この性質は、人間がつくったものである。
 葉が丸く内側に巻きはじめるのは、過剰かじょうな栄養のために過度に増えた葉がこみあって伸びるの  場所を失うからだ。もちろん生体が想定し得る以上の栄養を与えるあた  ことができるのは人間だけであり、そうして得られた結果――つまり、結球することによって内部は日光を遮断しゃだんされて白く柔らかくやわ   なり、同時にひとつの固体の食可能な部分の体積が飛躍ひやく的に増える――を享受きょうじゅするのもまた人間なの
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だ。
 私は、野菜のために土を耕しながら、ときどきそんなことを考えた。
 「文化」という言葉の語源は「耕す」という意味だと教えられ、そうであるとすれば土を耕す農業こそはまさしく文化的な営みだと納得するが、しかしそれにしたところで、文化というのは人間が手をつけられないような荒々しいあらあら  自然をなんとか馴化じゅんかして管理下に置こうとする試みなのだ、と種明かしをすれば、それほどたいしたことをやっていないのはすぐにわかる。人は自然界にある無限の音から人の耳に美しいと感じられる楽音だけを取り出して音楽をつくり自然界の無限の風景のうち気に入った部分だけを抽出ちゅうしゅつして絵画に構成する。農耕も含めふく て、そうした「文化」的な営みの中においてだけ、人は自然を自分たちのコントロール下に置いたような気分になるのである。
 私たちの農作業は、「文化」からはほど遠いところにあった。
 九二年は、前述したように乾燥かんそうした暑い夏だった。
 九三年は、一転して雨ばかり降り続く寒い夏で、コメが大凶作きょうさく見舞わみま れたことは記憶きおくに新しい。私たちの畑でもブドウには病害が発生したし、トマトは降り続く雨にたたられてひどい減収、ジャガイモは掘り返すほ かえ 前に半分が土の中で腐っくさ た。
 そして九四年はまたまた予想を裏切る酷暑こくしょ旱魃かんばつのシーズンで、ブドウは辛くもから  枯死こしをまぬがれてなんとか収穫しゅうかくにまで至ったもののブルーベリーは熟しつつある実をつけたまま立ち枯れた が 、トウモロコシも皮を剥くむ からびた実があらわれた。そのため連日水やりに追われたが、地熱があまりにも高くそれこそ焼け石に水であった。トマトもピーマンも水不足で小さな表面の乾いかわ た悲しい実しか実らせることができなかったし、秋になってようやく持ち直したと思ったら台風の風で倒さたお れた。
 まったく、自然を手なずけるどころか、自然の大きな力に翻弄ほんろうされるばかりである。
 もちろん、その理由の大きな部分が私たちの技術や予測の未熟さ設備や投資の不足にあることは明白だが、しかし必要なソフトやハ
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長文 1.2週 reのつづき
ードをすベて兼ね備えか そな ているはずの周辺のプロの農家も結局はほとんど同じような被害ひがいに苦しんでいることを考えると、そもそも農業というのは、人間が自然に働きかけかなりの程度それを飼い慣らしたように見えて、実際には単に大きな自然界のほんの少々の「おあまり」をいただくくらいのことしかできないのだ、ということがわかってくる。
 畑仕事をはじめた最初の年には、抜いぬ ても抜いぬ ても生えてくる雑草と格闘かくとうしているうちに、「いったい、おれはなんでこんなことをしているのだろう」と自問することがしばしばあった。「こんな無駄むだなことにかかわっている時間に、もっとほかにやるベきことがあるのではないのか?」そう思ってイライラしたこともある。
 しかし、そんな過渡期かときの思いも、二年めに入るとしだいに消えていった。
 畑仕事は、いくら人間が焦っあせ ても、できないものはできない。われわれの望むもののうち、自然の合意を得られた分だけを、ゆるゆるとすすめることしかできないのである。

(玉村豊男「種まく人」より)
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