1お金くらい、変なものはない。なぜなら、本来どうして交換可能かと思われるような対象が、お金を媒介にすれば、平気で交換されてしまうからである。
私が大学で働くと、ただいまのところ、一カ月に手取りで四十数万円下さる。2ただし、その金額の算定根拠は、私にとっては不明である。おそらくだれにとっても不明であろう。なぜなら、働いても働かなくても、ほぼ同じくらいの額をかならず下さるからである。もっとも、それが、官庁の取り柄といえば取り柄である。
3そもそもお金は、なぜ交換の媒体になりうるのか。それは、ヒトの脳がそうできているからである。脳という臓器は、その内部で、もともとはとうてい交換不能なものを、強引に交換してしまう。たとえば、目から入る刺激は、物理学的にいえば電磁波だが、脳はそれを、音つまり空気の振動と等価交換する。4それが、視覚言語と音声言語である。「あ」という形に発する、電磁波の信号が、「ア」という音と等価に交換される根拠は、脳がそれを実際に等価交換しているはずだ、という事実以外にない。脳は、そのいずれをも、神経細胞の信号に変換する。5だから、音と光とではなく、信号と信号とで、交換が可能になる。お金はじつは、その信号が、いわば単に外界に出たものに過ぎない。ヒトは、自分の脳を、外部に「投射する」のである。(中略)
6現代はシミュレーション社会だとか、擬似現実の社会だとかいうが、それは、現代社会が、身体というより、脳に似てきていることを示している。つまり、脳の中では、すべては擬似現実であり、すべてはシミュレーションだからである。7その象徴がお金であって、現代社会が、お金を中心に動くような気がするのは、倫理観が変化したからではない。社会が脳に似てきたためである。
現代社会は、要するに、より抽象度の高い世界である。8いまの人間が、身体と頭のどっちを余計に使うかといったら、多くの人が、そうとは意識せずに、頭の方を昔より余分に使っているであろう。
|