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 「こいつ、よくもひとのことをぶったな!」子供たちが口喧嘩くちげんかをしているうちに、一人が相手につい手出しをしたときなど、ぶたれた方がこんな怒りいか の声をあげるのをよく聞く。ここでの「ひと」とは明らかに話者が自分のことを言っていると解釈かいしゃくできるが、しかし考えてみると不思議だ。
 どうして普通ふつうは自分以外の人間を指すときに使う「ひと」という言葉が、この場合は自分のことを指すのだろうか。
 同じような「ひと」の使い方は、「あなた、よくもひとを騙しだま たわね!」とか、「黙っだま てひとのものを使わないでよ!」などにも見られる。しかし何かを自分がしたいときに「課長、それは是非ぜひひとにやらせて下さい」などとは言えない。
 このように見てくると、現代の日本語には、「ひと」ということばを、状況じょうきょうにより自称じしょう詞として使うことを可能にする法則のようなものがあるらしい。それはいったいどんな性質のものだろうか。
 (中略)
 現代日本語において、話者が相手に対して自分のことを「ひと」と称するしょう  ことができるのは、「話者が相手に対して自分の権利や尊厳が侵害しんがいされたことに対する不満、焦燥しょうそう(いかり、拒否きょひといった心理的対立の状態にある場合に限られる」というのが私の結論である。
 そこで次に考えなければならないことは、いったいどうして普通ふつうは第三者を指して言うことばである「ひと」が、以上述べたような条件の下では、話者が自分自身を称するしょう  自称じしょう詞、つまり一人称いちにんしょう代名詞のように用いられるのかという、記号論的な問題である。
 私は既にすで これまでいろいろな論文や著書の中で、現代日本語に見られる言語的自己規定の問題を扱っあつか てきた。つまり日本人はどのような場合に、いかなる言葉を使って自分を表現しているのか、そしてその記号論的なしくみはどのようになっているかといった問題である。
 その次に私が一貫いっかんして強調してきたことは、日本語には相手依存いぞんの相対的自己規定の傾向けいこうがきわめて広く見られるということであった。平たく言えば、日本人は話の相手がだれでどのような人かに
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よって、自分を称するしょう  ことばを原則的に変えているということである。(中略)
 また英語を初めとするヨーロッパの諸言語は、言語的自己規定の点では、むしろ相手依存いぞん型の対陣たいじん、つまり絶対的自己規定を特徴とくちょうとするが、それでもよく見ると、親族用語を使って行なう相対的な自己規定が、特別な条件の下では可能である。
 しかしこのようなことを念頭においても、なおかつ日本語における相対的自己規定の徹底てっていぶりは、これを日本語の大きな特色の一つに挙げてもおかしくないほどである。
 たとえば、多くの家庭に見られる、父親が子供に対して自分のことを「お父さん」あるいは「パパ」と言う自称じしょうのしくみは、自分と相手をともに含むふく 親族関係という枠組みわくぐ をまず設定し、ついでその体系内の相手の立場、つまり相手の視点から自分自身の座標を逆に規定する相手依存いぞんの相対的自己規定である。(中略)
 自称じしょう詞としての「ひと」は、話者が自分を相手の立場から見るだけでなく、その上、普通ふつうには設定される自分と相手をともに含むふく 共通のいかなる枠組わくぐみをも否定して認めないとき、初めて使用が可能となる。この段階で話者は対話の相手にとって完全な他者、えんもゆかりもない他人、つまり「ひと」となるからだ。
 話者が「ひと」を自称じしょう詞として使うときの気持は、「おれはお前にとっては無関係の他人だ。つまりお前の力、権限、干渉かんしょう、関心の範囲はんい外の人間だぞ。つまらぬよけいなことを言うな」といったもので、それまで存在していた二人を包む共通のわくを、この一言で壊しこわ てしまうのである。
 そこで次のように言えると思う。「よくもひとをぶったな」や「ひとの気も知らないで何さ」のような文に見られる自称じしょう詞「ひと」は、対話中の話者が、相手から何かしらの被害ひがい、権利侵害しんがい蒙っこうむ たと感じ、相手に対して心理的な対立状態に入り、相手に向かって共感同調的なつながりを断つことを示す、相手依存いぞん型の言語的自己規定である、と。
 (鈴木すずき孝夫『教養としての言語学』)
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