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 人間とはなにか、このぼくの問いにヒントを与えあた てくれたのは哲学てつがく者の梅本克己かつみだった。かれの『過渡期かときの意識』という本の冒頭ぼうとうに次のような短い一節があった。
 「人間そのものが一つの過渡かとである……」(『過渡期かときの意識』現代思潮社)
 この世界に、完成した人間などはいない。人はつねに未完成であり、過渡期かときの人間として生きている。ところが、僕たちぼく  は、自分が未完成であり、過渡期かときの人間だということを、しばしば忘れてしまう。もし自分が過渡期かときの人間であることを自覚していれば、僕たちぼく  は自分の知らないもっと素晴らしいものを探そうとするだろう。そうして世界のなりゆきに感動したり、怒っおこ たり、探していたものを発見したりすることができるだろう。(中略)
 考えてみれば、人間が過渡期かときの人間でしかないように、社会もまたつねに過渡期かときの社会なのだと思う。どんな社会であっても未完成なはずだ。とすればいまの自分に満足したり、いまの自分に居直ったり、いまの社会を肯定こうていしたり、いまの社会が永遠につづくと思ったりすることはできない。より素晴らしいものを探して、いまの自分のあり方やいまの社会を批判しつづける人間の方が、正しい生き方をしているはずだ。
 ところで人にとっての過渡期かときとは何なのだろう。楠本くすもとはこの本のなかでこういっているのだと思う。本当は人間は自分でも気付いていないような素晴らしい力をもち、もっと素晴らしい生き方ができるはずなのに、いまの社会ではそれができない。それなら本当の人間の力を、本当の人間の生き方を取り戻そと もど うではないか。もちろんそのためには社会も変革しなければいけないし、多くの困難も待ちかまえているだろう。だが人間にはそれだけのことをなしとげる力があるはずだ。つまり梅本克己かつみは、本当の人間の生き方を取り戻しと もど ていく人間として、現代の人たちは過渡期かときの人間だといっているのだと思う。
 『過渡期かときの意識』のなかには、次のような一節もある。「喪失そうしつせられたものを取り戻すと もど ……」。そう、いまの僕たちぼく  はいろいろなも
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のを失っているのだと思う。世界のなりゆきに驚嘆きょうたんする能力も、本当に感動したり、怒っおこ たり、より素晴らしい生き方を探していろいろなことに挑戦ちょうせんしていく精神も、僕たちぼく  が小さな俗事ぞくじにとらわれている間にいつのまにか失ってしまったような気がする。僕たちぼく  はそれらを取り戻さと もど なければいけないんだ。
 人間はつねに過渡期かときの人間であると梅本はいった。しかしこのことを自覚しつづけて生きることは大変なことだと思う。なぜならそれは失ったものを取り戻そと もど うとする行動とともにあるからだ。
 哲学てつがくは知識でも学問でもない。過渡期かときの人間が新しい一歩をふみだそうとする行動のなかにあるのだと思う。
 〈『哲学てつがくノート』五章 終わり〉
 
 「哲学てつがくノート五章」を書き終えたころぼくは自分が哲学てつがくの深みにはまっていくのを感じていた。哲学てつがくは知識ではないと痛切に思った。哲学てつがくはつねに未来に向かって開かれている。そういってしまえば簡単なのだけれど、哲学てつがくはこれからのぼくの生き方そのもののようだ。哲学てつがくを学ぶということは、自分自身を自己変革していくことだとぼくは思った。
 といっても三木清もいっているように、人間は環境かんきょうのなかの動物だ。自分自身を自己変革するためには、環境かんきょう、つまり社会を変革していかなければいけないことはしばしばあるだろう。自分を自己変革しながら社会をも変革する、また社会を変革しながら自分をも自己変革する、そうやって美しい人間の生き方と、美しく生きることのできる社会をつくっていこうとするとき、哲学てつがくはつくりだされるのだと思った。

 (内山節『哲学てつがく冒険ぼうけん』より)
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