1私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
2第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。3歴史と呼ばれ、人類の記憶の中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶によって濾過され、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
森鴎外の短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。4この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼み、薬棚の抽斗から乾燥したサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。5すべての物にある。」といった感慨を綴った作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外におけるサフランのようなものではないでしょうか。
第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げし、目的を一時保留して行動しなければならないからです。6言い換えれば、現実行動にあたって失敗を避けるには、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振りが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振ります。そのことによって、彼はバッティングという行為のプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
7私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。8学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れて、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。
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