1人間が「物」を造るには、必ず「手」を使う。手によって物の形を変える。そこに、われわれの役に立つ物ができ上がる。ある場合には、でき上がった物自身を道具としてさらに別の物が造り出される。それがまた道具となる場合さえある。2道具が複雑化すれば機械となる。そしてわれわれの手によって直接造り得る物とは比較にならぬほど大きなもの、精巧なものが機械によって容易に造り出されるのである。(中略)
ところが、物の形を変えて新しい物を造るという仕事には、もう一つの不可欠の要素がある。3それは言うまでもなく、物を動かすのに要する「力」である。手の指先の器用さと同時に、腕の筋肉の力が必要であったのである。それぞれの機械になんらかの形で動力が補給されねばならない。それはあるいは蒸気の膨脹する力であり、ガスの爆発の力であり、電気の力であった。4しかしながら力自身は本来形のないものである。ただそれが形のある物に伴っているが故に、われわれはこれを制御し得たのである。高所から落ちてきた水自身が運動のエネルギーを持っていたが故に、それを電力に変えることが可能であった。5電力そのものもまた、それが「針金」という固体の中を流れる電流という形において初めて人間の手で操り得たのである。空間を伝わる電波はアンテナによって捕らえられて初めて有用となるのである。
6このようにして人間がいろいろな形の力を利用して、さまざまな物を造り出すに当たって、直接相手としているのは、常に固体または固体の連結したものとしての機械であり器具である。しからばそれらを造り出す材料となっている物自身は、一体どこから得たのであるか。
7それはなんらかの形で初めからそこにあったのである。人間のいるといないとにかかわらず、自然物として存在していたのである。物を造るのに必要な動力はどこから出てきたのであろうか。それももちろん、自然が本来持っていた力以外の何物でもない。8げんに自然自身がわれわれの存在すると否とにかかわらず、自分自身の中に包蔵する力によって、不断にその姿を変えつつあるのである。山上の土は絶えず雨水によって平地へ運ばれているのである。動物や植物が数限りなくできてはなくなっていくのである。9この休止することを知らぬ自然自身は、一体誰が造ったものであるか。造り手の姿はどこにも見えないが、人間との類推によって造物者を
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