a 長文 12.3週 nu2
 「自分」というものに「気がついた」感じになった日のことは、くっきり覚えている。十さいのある日だ。前後の記憶きおくはなく、その瞬間しゅんかん情景じょうけいだけが――日差しや風の吹きふ 具合なども含めふく て―― 一まいの絵はがきのように心に残っている。
 学校の昼休みだった。教室のはずれに廊下ろうかから校庭におりる五、六だん階段かいだんがあり、わたしはそこに一人で坐っすわ ていた。
 よく晴れた日で、おでこのあたりが、ぽかぽか暖かいあたた  食後で、お腹 なかもちょうどよく満ち足りており、階段かいだんの木目のはだざわりも心地よい。いつもなら友だちと、わいわいガヤガヤやっている時間なのだが、その日はなぜか一人だった。
 校庭で遊んでいる友だちの姿すがたを目で追いながら、「ひとりでいる」ことにも満足している。(みんな元気にやっているな、よしよし)と、すこし、オトナになったような感じとでもいったらいいだろうか。
 そんな、ひなたぼっこの気分でぼんやりしているときだった。
 (あれ? あれあれ? こりゃなんだ?)
 いままで感じたことのないようなヘンな気分が、わき出てくるではないか。あたりの喧騒けんそうが、すーっと遠のき、シンとしてしまった。友だちの姿すがた確かたし にあそこにあるのに現実げんじつ感がない。豆つぶのようにチラチラしているだけだ。
 (なんだなんだ、いったいどうなっちゃったのだ!)
 外側は、くつろいだ姿勢しせいのまま、心の中は驚いおどろ てあわてふためいている。心臓しんぞうがドキドキして大騒動そうどうだ。なにがなんだか判らわか ず、じっと凍っこお たままでいるうちに、まるで自分の中の何かが一まいはがれたように、(あ、そうか!)と感じた。わたしというのは、わたし一人しかいないんだ。
 書いてみれば身もフタもない。が、なんとも奇妙きみょうな「了解りょうかい」があった。ややこしくなるのを恐れおそ ずに、そのときの気分を、ずらずら述べの てみると……
 (わたしのことを「わたし」と感じることが出来るのは、このわたししかいない。今まで、どれだけ沢山たくさんのいきものが生まれ、死
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んでいったか。これから、どれだけ沢山たくさんのいきものが生まれ、死んでいくか。
 いきものという大河たいがが、太古と未来を貫いつらぬ て、ごうごうと流れており、本日ただいまも――こうして、わたしが学校の階段かいだん坐っすわ ているこの時も――世界中に数知れないいきものが、満ちており、わたしはその中の、ほんとにちっぽけな存在そんざいだ。
 しかし、しかしである。ちっぽけではあるが、この、ここにいる直子を「わたし」と思えるのは、わたしだけじゃないか。この直子を「わたし」と思える、という事態じたいは大昔まで遡っさかのぼ ても、いちどもなかったし、今後どれだけいきものの歴史が続こうとも、もう二度とない。
 つまり、「直子=わたし」という状態じょうたいは、この世では「まったくく初めて」の出来事なのだ! 「じつに特別」なことなのだ! こりゃすごい)というわけである。いわゆる「自己じこの発見」的な芽が出たときだったらしい。
 その後しばしば、あの瞬間しゅんかんを思いだした。そして、直子という「にんげん」が、ほかならぬ「わたし」であることを不思議に思ったり、「わたし」を無視むしするかのように、直子という「にんげん」が沢山たくさん登場し、勝手に振る舞っふ ま て(と思えて)、ヤキモキしたりはらを立てたりした。(こんな直子は「わたし」じゃない)と。
 そのヤキモキ状態じょうたいが極まったのが十代だった気がする。――そう、これも十代の特徴とくちょうなのだろう。つまりは、直子と「わたし」のバランスがうまくとれないことだったようだ。

工藤くどう直子「出会いと物語」より)(原作を一部手直ししてあります)
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