a 長文 12.2週 nu2
 電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの携帯けいたい電話、お化粧けしょうつめ切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
 「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
 これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。ウォークマンの音もれ以外にも現象げんしょうはいろいろある。
 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
 狭いせま エレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
 たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
 寿司すし屋の職人しょくにんが、あいまにたばこを吸いす ながらすしをにぎっており、床屋とこやのおじさんは、剃刀かみそり片手かたてにテレビを見ている。
 いつかタクシーのなかの株式かぶしき情報じょうほうが耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
 謝恩しゃおん卒業パーティーなどで、先生方などまったく無視むしして、ごちそうの前にはりついている盛装せいそうの学生も少なくない。
 これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「迷惑めいわくはかけていないつもり」のしぐさの例である。
 人に迷惑めいわくをかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。これらすべての例において、多くのひと、とくに独身どくしん貴族きぞくといわれる人びとは、だれか特定の相手に直接ちょくせつには「迷惑めいわくをかけていない」つもりでいるのであろう。
 しかし、およそ、ひとに迷惑めいわくをかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ程度ていどの生き方である。これに対して、
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だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい違うちが 生き方であり、プラスとマイナスの違いちが があるのであり、両者は決して同じことではない。
 わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ掃除そうじをする人はちがう。吸いがらす   を駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
 もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と権利けんりがわれわれにはある。しかし、自分の選択せんたくで、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい診療しんりょう所の待合室では、あえてたばこを吸わす ないのは、その人のやさしさであろう。むかし、田舎いなかでは、秋のかきの木の実をわざといくつか残しておいて、からすなどに食べさせることにしていた。(中略)
 たしかに公衆こうしゅう道徳どうとくは低下した。ひとには迷惑めいわくはかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
 しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極せいであろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
 いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
 まじめな自分主義しゅぎ超えこ て、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。

(小原信「シングル・ルームの生き方」より)
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