a 長文 12.1週 nu2
 馬耳東風、ということばがある。
 他人のことばや意見などを心に留めと ないできき流すことを言う。馬の耳に念仏ねんぶつ。こういう人間には何を言ってもしかたがない。われわれはたいていのことをきき流しにしている。大事なことでも、左の耳から入ったらそのまま右の耳から出て行ってしまう。とくに馬耳東風をきめこんでいるのではなくても、耳は馬の耳である。そして、馬はそのことをご承知しょうちないから、のんきなものだ。
 学会などの研究発表では、たいていあとに質問しつもんの時間がある。かつては、ほとんど質問しつもんする人はなかった。外国人の講師こうしだと、不思議がる。どうして、日本人は質問しつもんをしないのだろう。全部賛成さんせいなのか。それともすべてを無視むししているのか、わからない。手ごたえがなくて不気味だ、と言う。馬の耳では質問しつもんしたくてもできないのだということを彼等かれら了解りょうかいしない。われわれ自身もわかっていない。
 先日、あるところで、日本人の耳は悪いという話をしたら、あとでそんなことがあるものか、と反論はんろんされた。病気にも自覚症状しょうじょうがあるうちは軽いが、本当に重症じゅうしょうになると自分の悪いことがわからなくなってしまうことがある。
 「馬耳しょう」という病気も、自覚症状しょうじょうがないところを見ると、膏盲こうこうったと考えなくてはなるまい。集団しゅうだん的にかかっている慢性まんせい病で、ひょっとすると、死ななくては治らないかもしれない。
 それでも、このごろの講演こうえんではあとに質問しつもんする人がふえた。やっと日本も外国なみになってきたかと喜んでいる人があるが、それはすこし早合点ではなかろうか。
 その質問しつもんというのが、実ににもつかぬささいなことばのあげ足とりであることが多い。講師こうしがちょっとはさんだことばをとりあげて、その使い方に異論いろんをさしはさむ。講師こうしがそれに答えるのだが、お互い たが の頭にある考えがまるで違っちが ており、自分の考えだけが正しいと思っているから、質疑しつぎ応答おうとうをくりかえしていると、ますま
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すこんがらがってしまう。すると、別の質問しつもん者が立ち上って、第一の質問しつもん者の言ったことの尻尾しっぽをつかまえて問題にする。それがまた第三の質問しつもん者を誘発ゆうはつする。
 もとの話を全体として把握はあくしていないから、どんどん枝葉えだは末節へ話が散ってしまう。もう何の話をしているのかわからない。それでもあとで司会者は、活発な質疑しつぎがおこなわれて、と言う。冗談じょうだんではない。馬の耳にはまとまったことを理解りかいすることができない。わかるのはせいぜいニンジンの葉っぱくらいである。(中略)
 相手の言うことをじっくりよくきくという訓練ができていない。都合のいいところだけをこまぎれにきいて、それをつなぎあわせて相手が言ったことにしてしまう。ことに立場の違うちが 人間同士のときにはこの傾向けいこうがつよい。ときとしては、意識いしき的に馬耳東風をきめこむ。
 ひところ、対話をしよう、討論とうろんをしよう、と言われたことがある。集まってカンカンガクガクのろんをかわす。いかにも活発な意見の交換こうかんがあったようだが、要するに、自分の言いたいことを勝手に言い合うだけである。
 相手の言い分など、はじめから問題にしていない。だから話し合えば合うほど、感情かんじょう的になって、まとまる話もこわれてしまう。そのせいだろうか。このごろは、かつてのように対話や討論とうろんが必要だとは言われなくなった。
 ときに「きき上手」といわれる人もないではないが、これは耳がよくて、他人の意見をよく理解りかいするということではないようだ。うまく受け答えして、相手に十分話させることの意味である。
 意見が対立するとき、相手の言い分を誤りあやま なく理解りかいするという意味での「きき上手」というのには、ことばすらない。ことだまのさきおう国が、どうしてこういうことになったのか。

外山滋比古とやましげひこ「ことばの作法」より)
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