a 長文 11.4週 nu2
 「意地」という日本語は、広い意味ではこころをさすが、こころのなかでも、自分の思ったことをやり通そうとする気持ちをあらわしているようである。したがって、意地は意志いしといってもよかろう。
 ところが、そのような意志いしを、どういうわけか日本人はあまりこころよく思っていなかったようである。その証拠しょうこに、意地という言葉はけっしていい意味に使われていない。「意地が悪い」とはいうが、「意地がいい」とはいわないし、「意地がきたない」とはいっても、「意地がきれい」とは使わない。「意地になる」というのは、わざと人にさからうことだし、「意地を張るは 」ような人間はけっして好まれない。こう見てくると、日本人は意地を持てあましているとさえいえそうである。それはなぜなのであろうか。
中略ちゅうりゃく
 では、「意地」と「意志いし」とはどのようにちがうのか。「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑こうじえん』)という意味においては、たしかに「意地」は「意志いし」と同義どうぎのように思えるが、たとえば「男の意地」「女の意地」「武士ぶしの意地」などというときの意地は、けっして意志いしと同じではない。こころみに「男の意地が立たない」といった表現ひょうげんを「男の意志いしが立たない」といいかえてみれば、それがよくわかる。「意志いしが立たない」などという言葉はあまりきいたことがないが、あえてそれを解釈かいしゃくすれば、「こころざしが立たぬ」、つまり、だらしがないということになるのだろう。「男の意地が立たぬ」というのを、「オレはそんなだらしない男ではない」の意と解するかい  こともできようが、「意地が立たぬ」は、もっとべつのニュアンスを持っているように思われる。だから、これは外国語には絶対ぜったい翻訳ほんやくできない日本的な感情かんじょう表現ひょうげんというしかない。
 では、そのような「意地」とは何なのか。それにはやはり、「意志いし」と比較ひかくして考えてみるのがいちばんである。
 まず第一に気付くのは、「個人こじん意志いし」とはいうけれども、「個人こじんの意地」とはいわないということだ。また、「男の意地」とは
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いうが、それを「男の意志いし」とするとおかしなことになる。ここから、「意志いし」というものが、あくまで個人こじんのものであるのに対して――むろん、みんなの意志いしということもあるが、その場合でもそれは個人こじん意志いしの集まりであって、意志いしの原点はあくまで個人こじんにある――「意地」とは集団しゅうだんに共通したある種の表象、個人こじん意志いしから独立どくりつしたいわば「公認こうにんされた意志いし」であることに気付く。つまり、「男の意地」というのは、男ならばとうぜん持たねばならぬ気構えきがま のことであり、それはけっして個人こじん的なものではなく、あくまで社会、あるいは特定の集団しゅうだんに課せられているある種の規範きはんなのである。
 だとすれば、「意志いし」と「意地」のちがいは、意志いし個人こじん的なものであるが、意地は社会的・集団しゅうだん的なものである。だからこそ、「男の意地」「女の意地」「武士ぶしの意地」「ヤクザの意地」「若者わかものの意地」というふうに、意地はすべて集団しゅうだん帰属きぞくするのだ。その「意地」を「意志いし」という言葉におきかえると、まったく意味をなさないのは、意志いしはあくまで個人こじん個人こじんのものだからにほかならない。
 (中略ちゅうりゃく
 共通のイメージに自分を合わせる、らしくあろうとする――いずれにしても、それはほねの折れることにちがいない。だから「意地を通す」ことは窮屈きゅうくつになる。『草枕くさまくら』の主人公は、そのように自分の「意志いし」からではなく、世間的な共通のイメージに合わせて「意地」を張るは のがホトホトいやになって、「非人情ひにんじょう」の天地を求め、山の中へ入って行った。かれは「意地」を通すかわりに、自分の「意志いし」をつらぬいたのである。

 (森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』(新潮しんちょう文庫)より)
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