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 音楽に限らかぎ ず文化というものは、共有財産ざいさんとしてみなが自由に使える形で常につね 身の回りにあってこそ発展はってんするという面をもつ。モーツァルトの音楽を聴くき と牛のちちの出が良くなるとか、良い子が育つというような話が本当かどうかはともかくとして、音楽がコンサートの場だけでなく、様々な社会的局面で人間を育み、文化を涵養かんようしてゆく機能きのうを果たすことを考えれば、それらが自由に使えるということは重要なことである。少なくとも、モーツァルトの音楽を使うたびに著作ちょさくけん料を取られていたのでは、そのような文化の広がりが望めないばかりか、音楽の創作そうさく活動自体も窒息ちっそくしてしまうだろう。
 アフリカ諸国しょこくなどでは、自国の音楽文化が西洋の音楽家にリソースとして勝手に使われることに対抗たいこうし、西洋の著作ちょさくけんの考え方を導入どうにゅうしたことがかえって地元の人々の音楽活動を抑制よくせいする結果になってしまったりもしたようだ。それらの地域ちいきには、みなが共通に使えるメロディなどの素材そざいを共有財産ざいさんとしてストックし、使い回すことによって新しい音楽づくりをしてゆく文化があった。西洋の搾取さくしゅをおそれるあまり、彼らかれ 日常にちじょうそのものが変質へんしつし、窒息ちっそくさせられてしまったのである。
 アフリカだけの問題ではない。西洋の近代文化は、作者個人こじん独創どくそうせいをことさら重視じゅうしする文化には違いちが ないが、それが「文化」である限りかぎ 、その独創どくそうせいは決して作者一人のものではありえない。バッハやモーツァルトなど、多くの先達たちの残した「遺産いさん」に取り囲まれ、それらを模倣もほうしたり換骨奪胎かんこつだったいしたりして摂取せっしゅする一方で、それらと対峙たいじしのりこえることを通して、音楽文化は育まれてきた。
 保護ほご」して勝手に使わせないようにするだけでは文化は育たない。それらを共有財産ざいさんとしてみなで分かち合い、余すあま ところなく使い回すための公共の場が確保かくほされていることは、文化を生み出す土壌どじょうには不可欠ふかけつなのである。著作ちょさく物の保護ほご年限ねんげんがどんどん延ばさの  
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れてゆく今日の風潮ふうちょうの中で、著者ちょしゃの「権利けんり」に目を奪わうば れるあまり、文化のそういう側面が忘れわす られてはいまいか。
 個人こじん情報じょうほう保護ほごもそうだが、文化は社会全体で育ててゆくものだという視点してんを失い、個人こじん権利けんりだけが暴走ぼうそうするのはこわいことだ。著作ちょさくけんという考え方自体、決して一枚岩いちまいいわ的に成立したわけではなく、芸術げいじゅつの社会的位置や文化産業のあり方の変化の中で、西洋社会がみなで工夫を加えながら育んできたものだ。西洋社会がこのような考え方をなぜ必要とするにいたったか、それが日本の社会に何をもたらし、何を失わせたのか、そういうことをあらためて認識にんしきしなおすことが今求められている。

 (渡辺わたなべひろし『考える耳』(春秋社))
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