a 長文 11.2週 nu
 これまでの人の観察や考えを利用するという必要から、読書はまず必要である。現在げんざいの学問にとっても必要である。いな、学問がだんだん進歩して、人間のありさまについても、自然のありさまについても、観察や思想が積み重なれば重なるほど、たくさんの本を読むことが必要になってくる。昆虫こんちゅうの生活を知るには、昆虫こんちゅうそのものを見ることがまずたいせつである。しかし、ファーブルの昆虫こんちゅう記を読むことによって昆虫こんちゅうの生活はよりよくわかる。またわれわれは、すぐれた絵画や音楽や文学に接しせっ たとききっと深い感動を受ける。しかし、これまでの人が、それらの絵や音楽や文学について書いた批評ひひょう解説かいせつを読めば、われわれの感動はより深まる。
 本を読むことには、もっと別の利益りえきがある。それは、いくらわれわれが苦労しても、自分自身では経験けいけんすることのできない経験けいけん、それを教えられることである。
 たとえば、ロビンソン・クルーソーのように、ただひとり離れはな 小島にただよい着いて、不便なひとりぼっちの生活を送るということは、おたがいの一生のうちに、まずありそうにもないことである。しかし、ロビンソン・クルーソー漂流ひょうりゅう記という書物を読めば、人間はそうした場合、どういう気持ちになり、どういう行動をするかということがわかる。また、孫悟空そんごくうのように、雲に乗って空を飛びまわったり、耳の毛を何本かぬいて、ふっとふけば、それがみな自分と同じさるの形になって、そのへんを走りまわるというようなことは、空想の世界だけにあって現実げんじつの世界にはないことがらである。しかし、西遊記という書物を読めば、そうした場合に、人間はどんな気持ちになるだろうと、想像そうぞうすることができる。
 小説ばかりではない。歴史の本も同じように役にたつ。われわれは、ジョージ・ワシントンのような地位に立つことは、まずあるまい。また、ナポレオンのような地位に立つことは、いっそうあるまい。しかし、ワシントンの伝記を読めば、誠実せいじつに世の中のためにつくそうとした人の喜びと苦しみがわかるし、ナポレオンの伝記を読めば、うぬぼれの過ぎす た人間の得意さと悩みなや がよくわかる。
 なるほど、われわれはロビンソン・クルーソーそのままの境涯きょうがいになることはまずあるまい。つまり、離れはな 小島でひとりぼっちの生活を送ることは、まずあるまい。しかし、そうしたときの人間の気持ちを知っておくことは必要である。
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クルーソーは、不便きわまる境涯きょうがいの中で、その不便にうち勝つために奮闘ふんとうした。考えてみれば、われわれの住んでいる地球もたくさんの不便をもっている。これも大きな宇宙うちゅうの中の一つの離れはな 小島であるかもしれない。クルーソーの離れ島はな じまは人間が少なすぎて困りこま 、われわれの地球は人間が多すぎて困っこま ている。困っこま ている点では、われわれもクルーソーと同じなのである。困っこま たあげく、ときどきは、あの雲に乗って飛びまわれたらと、ふと考えることがないでもない。その点では、われわれも孫悟空そんごくうと同じである。しかし、それはむなしい空想だとさとると、やはりワシントンのように、じみちに誠実せいじつに生きようと思うし、ときにはまた、ふと、ナポレオンのように、からいばりをしたくなったりもする。つまり、ワシントンはわれわれの中にいるのであり、ナポレオンもわれわれの中にいるのである。ひとのことを読んでいるのではない。われわれのことを読んでいるのである。
 書物を読むことにはこのような利益りえきがある。ところでわたしが、これから書物を読もうという若いわか 人たちに勧めすす たいことが一つある。それはこういうことである。気に入った書物にでくわしたときには、一度読んだだけでよしにせずに、二度三度とくり返して読んでほしい。二度三度とくり返して読みたくなる書物、それはきっとそれだけのよさをもった書物である。
 孔子こうしは、書物を読むことの利益りえきを、初めて説き示ししめ た東洋人であるといってよい。ところで、孔子こうしえきを読んで、へんぜっしたということが、その伝記に見えている。へんというのは、皮のひもという意味であって、当時の書物は、竹の札を一まいずつ横に並べなら 、札と札とを皮のひもでくくりあわせてあったが、そのひもが三度も絶ちた 切れるほど、えきの書物を、孔子こうしはくり返しくり返し読んだというのである。
 われわれも、何かそれぞれに好きな書物を、とじ糸が三度も切れるほど愛読したいものである。どの書物がそれであるかは、人々によってちがうであろう。しかし、何かそうした愛読書を、一生のうちにはみつけたいものである。
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