a 長文 10.2週 nu
 子どものころ、わたしは「ノーの一語」という見出しの文を読んだことがある。それは、あるイギリス人の書いた本から訳しやく たものだということで、「ノー」ということばは、ときとしてたいへん言いにくいことばであるが、言いにくいからといって、言うべきときに、言わないでいると、相手に思いもよらない迷惑めいわくをかけることがある、というものであった。これは、おそらく、人間という人間が、生きていくあいだにいくどとなくぶつかる問題であると思う。わたしもこの問題について考えてきたことを書いてみたい。
 ことばの生活には、ときどき、言いにくいことばがあらわれて、わたしたちのことばを、にごらせたり、くもらせたり、ゆがませたりする。
 忘れわす ました。」もそのひとつである。このことばを言うとき、知らないあいだに、わたしたちの声は小さくなったり、不明確ふめいかくになったりしやすい。ことに、忘れわす てはならないだいじな用事を忘れわす たときなど、「忘れわす ました。」は、いっそう言いにくいことばになって、なぜ忘れわす たかという言いわけのほうが、それよりもさきに口をついて出てくる。しかし、そういう言いわけは、じっさいには責任せきにん転嫁てんかにきこえるだけで、なんのききめもない。「忘れわす ました。すみません。」という、責任せきにん感から出たことばだけが、相手の心をほぐす力がある。それを言ったあとで、忘れるわす  ようになった事情じじょうをのべれば、それは責任せきにんのがれではなく誠意せいいのこもったことばとして、相手の心に通じるものである。
 一般いっぱんに、「ください。」とか「おねがいいたします。」とかいう依頼いらいのことばや、「すみません。」とか「ゆるしてください。」とかいうようなわびのことばも、言いにくいものである。ことに、まだことばの生活にじゅうぶんなれていない少年や青年のころには言いにくい。そのために、つい、言うのをためらったり、ことばをあいまいにしたりして、卑屈ひくつ態度たいどになりやすい。あるいはまた、まともに「申しわけありません。」と言うかわりに、「おわびに来ました。」というような言い方になりやすい。それではおわびの真実はあらわれない。言いにくさを押しきっお   て言う声やすがたこそ、おわびの真実があらわれて、相手の心を動かすのである。
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そのようにだいじな、しかも、ことばとしてみればほんのかんたんなひとことが、どうしてそんなに言いにくいのであろうか。それは、こういうことばは、自分の失敗や、欠点や、無力さを、みずからみとめる自己じこ否定ひていのことばだからである。
 しかし、自分を否定ひていするとは、自分の全体をだめだとしてしまうことではない。
 自分のここがまちがっていたとか、この点がたりなかったのだとか、自分からはっきりみとめてそれを否定ひていすることであり、そうすることで、わたしたちは明るくなり、つよくなる。とはいっても、自分の全部を肯定こうていして、自分だけは完全なもののように思っていたいのが人情にんじょうである。だから、だれでも、自分の欠点をみとめたり、みとめられたりすることは、本能ほんのう的にさけようとするのである。
 こういうたぐいの言いにくいことばをほんとうに征服せいふくすることができたとき、人間としての真実が開けてくる。また、人間としての真実があらわれるとき、言いにくいことばも征服せいふくされる。そういう真実になってものを言うとき、そのことばはよく相手に通じるだけでなく、ことばのひびきもすがたもすっきりしてくるのである。
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