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 モーツァルトという人類史上まれにみる美を生み出した、近代西洋の機能和声音楽とは、人間にとって何なのか、それを考えるために、私は若いとき、医者になるのはやめて音楽学を勉強しようと思ったことがある。音楽美学のように哲学てつがく的・抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを問題にするよりも、音を聴くき という具体的な感覚体験のほうからそれを考えようとしていたのは、私が医学部生だったからだろうか。
 機能和声音楽では、ソシレの属和音の次にドミソの主和音が来ると、音楽が一段落したという終結感が生み出される。属和音にファを加えてソシレファの属七和音にしてやると、この終結感はもっと明確なものになる。これは、シの音が半音上がってドに向かおうとし、ファの音が半音下がってミに向かおうとする、この二つの音のもつ強い方向性のためである。ある音がそれ自身にとどまろうとせず、自らを離脱りだつして別の音を求めようとする、ほとんど生理的といってよい法則的傾向けいこう、これが機能和声の基礎きそになっている。
 平均律でどの半音も等間隔とうかんかくで並んでいるピアノのような楽器だと、それぞれの音は完全に均質化されていて、だからこそ転調というような技法も可能になるのだが、そこにひとつの調性が与えあた られたとたん、音階上のそれぞれの音に、他の音と異質な個性が生まれる。鍵盤けんばん上のすべての音は、音の高さ以外はまったく均質であるはずなのに、いったん調性が与えあた られると、どの音もそれぞれ異なった未来指向性を示すようになる。
 この個性、たとえばシのド指向性は、人間の感覚にとって抗いあらが がたいもののようである。だからピアノと違っちが て平均律に固定されていない弦楽器げんがっきの奏者だと、シの音を弾くひ 場合、この指向性に無意識にひきずられることになり、シをあらかじめドの方向に寄せて、つまり平均律より少し高く、純正調に近い音で弾こひ うとする傾向けいこうが出てくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタを書くとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべく重ならないように注意していたらしい。音が濁らにご ないようにという配慮はいりょからである。
 調性が与えあた られると音が個性をもつようになる。調性が与えあた られるというのは、それを決める音がすでにいくつか聞こえたということである。つまり、音楽にその経歴が与えあた られたということであ
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る。音楽が鳴りはじめると、あらゆる音は自らの経歴を、過去の想起(アナムネシス)を含むふく ことになる。過去に鳴ったすべての音の積分として鳴っているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在の音の未来指向性(プロレプシス)を生み出す。シがドに、ファがミに進もうとするのは、調性のアナムネシスそのものが紡ぎつむ 出す微分びぶん的な方向のプロレプシスである。属和音から主和音への進行が終わると、プロレプシスはそこで一段落となり、さらなる行動への要求が消えて、安定感と終結感が得られる。
 生命的行動のアナムネシス・プロレプシス構造というのは、ヴァイツゼカーの理論を語るときに欠かすことのできないかぎ概念がいねんである。人間に限らず、あらゆる生きものの主体的な行動は、物体の物理的な運動と違っちが て、「そこから」と「そこへ」の性格をもっている。それはつねに記憶きおくに裏づけられた未来の先取だとヴァイツゼカーはいう。アナムネシス的な経歴に支えられたプロレプシス的な未来の先取りが、そしてそれのみが、主体の主体性を可能にしている。だから主体というものは、つねに現在の最先端さいせんたんでプロレプシス的に未来を生きている面と、それまでの過去の全部をアナムネシス的に生きている面との、境界的性格をもつことになる。(中略)
 人間の感覚は、このプロレプシスの意識とアナムネシスの意識とのはざまに「時間」を感じとる。時間という実在があらかじめ与えあた られていて、われわれがそれを消費しながら生きているのではない。生きるということは、行動の各瞬間しゅんかんが過去を継承けいしょうしながら未来を先取することによって、その界面に時間という現実を生み出し続けることにほかならない。

(木村びん「音楽と時間」より)
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