1A氏は、まずメンフラハップのコマーシャルを例にあげ、「モノはそこにあるだけではただのモノにすぎない。が、そのモノに面白い言葉がつくと、とつぜんモノが息づき、2モノと人間との関係が生き生きとしたものに変わってくる」と広告の『あらまほしきありよう』を説いてから、商品というモノを息づかせることなく、モノから離れ、一人歩きしていった「繁栄」の六〇年代以降の広告について批判的にのべている。
3その、広告のいわゆる「モノ離れ」現象が起きたのは「技術の高度化が平準化を生み、競争商品の間に品質や性能上の差異がなくなった」結果だった。4商品が似たようなものになればなるほど、自社商品の印象を競合商品から際立たせる必要が生じ、その「差別化」の役割を、もっぱら広告が担うことになったのである。ということについてA氏はいう、「それはいい、好むと好まざるとにかかわらず、私たちはそういう時代を生きている。5が、その差異づくりが、もっともらしい言葉やまことしやかなレトリックの競争になり、人間的な息づかいを失って空回りをはじめると、言葉はただのガレキになり、モノと人間との間に壁を作ってしまうことになる。6六〇年代以降の広告は、実際には、そんな方向へどんどん進んできてしまったのではないか」「そういう広告は、商品と人間の関係を生き生きさせるどころか、両者を窒息状態に追い込んでしまう。7いま広告に批判されるところがあるとしたら、それは欲望を誘発するとか暮らしのイデオロギーを押しつけるといった古くさい論点によってではなく、モノと人間をへだててしまうような『言葉のモノ化』によってではないだろうか」と。
8A氏によれば、川崎作品で、郷ひろみと横山やすしが「ハエカ退治にキンチョール。言ってみろ!」とバケツに向かって叫ぶのは、モノ化した言葉の壁を開く「ひらけ、ゴマ!」のまじないであり、9糸井作品が意図するのは、『差異づくり』でなく、『場づくり』を狙うことで、モノ化した言葉の壁をバイパスしてしまうことだという。その分析は、面白かった。モノと人間の関係、人間と人間の関係、の再活性化広告を歓迎することにも賛成である。
0しかし、「それはいい、好むと好まざるとにかかわらず私たちはそういう時代を生きている」と「時代」を大前提化して、論議の
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