1近代社会は前近代の安定したピラミッド型の社会構造を破壊し、そこに流動状態をもちこんだわけだが、だからといって階層秩序そのもの、すなわちピラミッド型の枠組そのものまで放棄したわけではなかった。2そこには、さまざまなかたちで階層秩序的構造が残っているし、またそれがあるからこそ、それらの段階を上昇すること(立身出世、人間的完成、経済成長、福祉の整備、軍事的優勢、貧困の撲滅、平等な社会の実現など)が理念的に可能であると信じられてきたのである。3これらはひとつの理念を中心に構築された大きな物語(歴史やさまざまなイデオロギー)によって方向づけられていた。人々は多様な事実をこうした物語の秩序に従って配列し、また自分自身の生の意味づけも、この物語から受け取っていたのである。
4だが、現在ではこうした物語は軒並みその信頼を失っている。つまり、そうした秩序はもはや人々が自分自身の生を投影する鏡としての機能を果たせなくなったのだ。5大宗教、イデオロギー、高級文化、公的な文化などは、すでに人々と世界を結びつける機能を失ってしまっている。そのことの原因としては、異なった文化を根こそぎに均質化し、効率のみがすべてを支配する情報化社会の出現が考えられるだろう。
6問題はカルト的文化が、こうした文化的階層秩序の不在の上に成り立っていることである。つまり、そこでは各要素を構造づけていた価値秩序が崩壊し、各部分文化が断片的に自立したものとして据えられているのだ。7たとえば、漫画と文学、ロックとクラシックなどの間にかつては残っていた暗黙の上下関係はもはや存在しない。それらはただ単に同じ平面の上に漂っている、お互いに無関係の孤島にすぎないのだ。(中略)
8もちろん従来からの階層的な価値秩序はまだまだ残っているし、現実にはそうした「建て前」によって社会は維持されているように見える。人々はいい大学をめざし、いい会社をめざし、まわりから祝福される結婚をめざし、出世をめざす。9だが、それらの理念までが残っているわけではないのだ。いい大学はけっして学問を修め、自己を成長させるためにめざされるわけではないし、会社はその理念によって選ばれるわけではない。それらは、ただ単に
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